興福寺国宝館無着像

長野市立柳町中学校

3年5組 鈴木真美


 修学旅行の前から、私の頭にこびり付いて離れない一体の像があった。

 興福寺国宝館内に安置される「無着像」である。

 旅に出る前、訪問が予定される各寺の仏像等について資料に当たっていたところ、たまたま無着像の写真を見つけた。

 第一印象は、「視線がいかにも冷たく、恐ろしげな様子」。
 が、恐ろしいと思えば思うほど、私はこの一体の像に不思議な魅惑を感じ、逆に引き込まれて行くのだった。

 こう言ってしまうと、いかにも大袈裟に聞こえるかも知れないが、何と言われようと、その時の私の素直な感情は、そうとしか言い表せないものだったのだ。

 ―そして今、私はこうして興福寺国宝館入り口に立っている。

 想像していたよりも広い館内。私は、無着をこの目で見る時が刻一刻と迫っている事を知って、幾分心が動揺していたが、その気持ちは見せぬよう努めながら、何食わぬ顔で館内に足を踏み入れた。

 金剛力士像、千手観音像、前々から興味を抱いていたこれらの素晴らしい像に対しても、今はさほどの感動を覚えない。

 ともかく今はもう、ただ無我夢中で確かめたかったのだ、無着像からこんこんと湧き出る、えも言われぬ力が、その精神が、本当に恐れるに足るものなのか、そのことだけを、どうしても知りたかったのだ。

 そしていよいよ、その時は来た。

 私は、無着の前に無言で立った。二人は微動だにせず、互いに向き合っていた。
 不意に、それまで緊張していた私の頬がほころぶ。

(―これが無着!)

 想像していた恐ろしげな姿とは似ても似つかぬ、この温かみ。一体、これは何なのだろうか。口では言い表わすことのできない深い感激が、心の中に広がっていく。

 おそらくは誰にも理解してもらえまい。
 私がどれほど、あなたに会いたいと願っていたか。

 おそらくは誰にも理解してもらえまい。
 ただ、この一体の像が、今の私にとってはいかなる高価な宝石にも増して尊く、真実である事を。

 無着の目がたたえていたもの、それは、万人に向かって投げかけられた愛であり、寛容だった。

 いつまでもここに居たい気持ちを押し切るようにして、私は国宝館を後にした。
 将来のいつの日か、再びここに来る機会が与えられたならば、その時、無着はいかなる目で、私を迎えてくれるのだろうか。

 その日まで、無着よ、さようなら。



※中3の修学旅行は京都方面に行きました。旅から戻り、最初の国語の授業で書かされた感想文がこれです。旅の感想を求められても、その全体についてではなく、たったひとつの出来事を選んで細かく書き込むのが、子ども時代の私の癖でした。小学1年生の遠足について綴った感想文でも、他のクラスメートが「おかあさんのつくってくれたおべんとうをたべました」「お花がさいていました」といったことを書いていた時に、私だけが「えんそくのとちゅう、考えごとをしました。それは、このうちゅうに、どこまで行ってもまっすぐな線を引くことができるかどうかということです」などと書くような、いつも何かを考えている子どもでした。鈴木=山田真美の旧姓。