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2007年11月5日号(第280号)
今週のテーマ:
六十日間インド一周(その五)


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'WHEEL OF DESTINY"出版のお知らせ
このたびニューデリーの出版社Mudra Booksより、拙著'WHEEL OF DESTINY'が出版されました。
 ★発行年月日:2007年10月29日
 ★言語:English
 ★ISBNコード:81-7374-145-7
 ★体裁:ペーパーバック467ページ
 ★価格:390ルピー(インド国内税込み価格)
 ★カバーデザイン:LiA
本書は『インド大魔法団』と『マンゴーの木』が1冊になった英語版です。ご注文・お問い合わせはmami@yamadas.jp mami@yamadamami.comまでお願いいたします。なお、品切れの際は何卒ご容赦ください。

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●10月15日(月)
 
 チェンナイ4日目。ホテル前でオートリキシャーを拾い、街に出る。

 海岸沿いのレストランでインド洋を眺めながら遅い朝食を摂ったあと、再びオートリキシャーで神智教会(Theosophical Society)へ。お目当ては教会の敷地内に生えている巨大なバニヤンの樹を見ることだ。

 樹の下でしばし瞑想。緑に囲まれ酸素量が多いのだろう、実に瞑想に適した場所であった(ただしも多かったが)。

 次にヴィヴェーカナンダ博物館を訪ねてみた。ヴィヴェーカナンダはラーマクリシュナ(インドの高僧)の弟子で、「すべての宗教の融和」を説いた師の哲学を世界に広めた立役者のような人物である。

 「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ=青は藍より出て藍より青し=弟子が師匠を超えること)」という言葉があるが、ラーマクリシュナとヴィヴェーカナンダの場合も、むしろ世間的には弟子のほうが有名と言えるかも知れない。

 夕方からインド国立文学アカデミー主催のレクチャーを行なう。
 聴講者は高名な学者さんや大学教授、それにジャーナリストなど、チェンナイでかなりの影響力を持つ人々ばかりであった。

 今回は、「相撲取りは薬物を接種することによって巨大な肉体を保持しているのか?」「今でも日本人はハラキリするのか?」といったインドで広く喧伝されている誤解を解くため、日本文化について一から詳しく説明。

 例によって「もっと話の続きが聞きたい」というアンコールがあり、当初は19時終了の予定だったところ、すべて終わったときには20時を過ぎていた。

 さらに終了後は数人のジャーナリストからインタビューを受け、夜遅くなってからホテルに帰着。ベッドに横になるなり即、爆睡
 
(左)神智教会の大きなバニヤンの樹の下でしばしメディテーション (右)レクチャー会場にて



レクチャー中の一コマ。右端の眼鏡の男性がインド国立文学アカデミーチェンナイ支局長のナートゥ氏
●10月16日(火)

 インド映画と言えば、何と言ってもムンバイ(ボリウッドの本場)が有名だが、ここチェンナイも、インドで第2位とも第3位とも言われる映画製作の本場である。一世を風靡した『踊るマハラジャ』も、私の記憶違いでなければここチェンナイで作られた作品のはず(ただし私は見ていないが)。

 というわけで今日は、映画の撮影所を何ヶ所か見学してきた。

 お昼の連ドラに主演中のジョン(毎日12:00から放送の番組でオートリキシャーの運転手を演じている)の撮影現場を隈なく見せてもらった。ジョンはタミール語圏では超有名な俳優さんらしい。人気者とは言え腰が低く、感じの好い青年だった。

 映画撮影所見学のあとはサリーに着替え、夕方からアジア学研究所においてレクチャー。
 そのあとは新聞と週刊誌のインタビューを何件か受けた。

 ちなみに……インドに来て以来、さまざまな新聞・雑誌・TVの取材を受けてきたが、その記事が実際に出たのか出なかったのかは謎のままである。

 マイソールで撮影したTV番組はオンエアされたらしいのだが(マジシャンのクドゥローリ・ガネーシュ氏がそう知らせて来た)、その他のことは全くわからない。おかしな話だが、インドには「取材さえ終えてしまえばもう連絡をして来ない」というトンデモない風潮が確かにあるからだ。

 例えば、10年ほど前にニューデリーで撮影した某TV番組は、何度も何度も再放送されているにもかかわらず、TV局側から私にはいまだに何の連絡も来ない(オンエアされたことは、偶然に番組を見た友人たちからの「見た見た!」という連絡で知った)。

 そのため今では、番組を見ていないのは本人だけという超トホホな状態になってしまっている。

 10年前のこの番組のなかで私は緋色の着物で屏風の前に座り、"Bushido is..."と武士道について熱く語ったように記憶している。……今さら見るのも恐ろしいか(苦笑)。
  
(左)有名なタミール俳優のジョンさんと記念撮影。ちなみにこの恥ずかしいTシャツは、日本ではなく
インドで購入した物。日本では着られなくてもインドなら平気だ(笑) (右)撮影所の風景


  
(左)レクチャー会場にて (右)宝船と七福神について説明しているところ。七福神のうち弁才天、
大黒天、毘沙門天(別名・多聞天)はインド出身の神々である
●10月17日(水)

 10時05分チェンナイ発のインディアン・エアライン便でコルカタ(旧カルカッタ)へと飛んだ。

 コルカタ。いかにも肩の凝りそうな地名だ(昔は軽かったのだが)。
 冗談はともかく、ここは色々な意味でなかなか重い街である。物乞いの数も多いし、貧困の度合いも顕著だ。

 マザー・テレサが設立した死を待つ人の家もここにある。

 ノーベル文学賞を受賞した詩人のタゴールや、映画監督のサタジット・レイを生み、「ネタジ」の愛称で知られるスバーシュ・チャンドラ・ボースを育んだ街。さまざまな文化の発祥の地でありながら、インドの大都市のうち最も近代化の遅れた土地。

 インドの他の都市ではもう見ることのない人力車が、ここコルカタでは未だに大通りを走っている。西ベンガル州政府は何年も前から交通渋滞軽減のために人力車を全面禁止したい意向のようだが、実際問題として人力車夫にはこれ以外に収入の道がないのだから、やめられるはずがない。

 友人で偉大なるマジシャンのP・C・ソーカ・ジュニア(彼もコルカタの人である)は、かつて私にこう言った。

「コルカタは、入ることは出来ても出ることは出来ない一方通行の街です。ここはブラックホールのような街なのです」

 しかし、これほど強い個性を持った“重い”街でありながら、コルカタの歴史はたかだか300年ほどに過ぎない(そのためここには世界遺産の一つもない)。その点で、3000年以上の歴史を持つデリーとは大差がある。

 街は今日から始まった年に1度のヒンドゥー教の大祭ドゥルガー・プージャ(今年は10月17日〜21日まで開催)のため、かなり浮かれ気味である。学校はお休み。政府のお役所を含む職場も軒並み休業になってしまう。

 今日から暫くコルカタに滞在する。
  
コルカタの街のほうぼうで見かける人力車夫。非常に過酷な低賃金労働者である
●10月18日(木)
 
 昨日から始まった年の1度のドゥルガー・プージャ(プージャは祭礼の意味)のため、現在、コルカタは全く機能していない。人々は祭りに夢中で、仕事はすべて宙に浮いている。

 この状況下では、こちらも祭りに没頭する以外に手がなさそうだ。……というわけで今日は、朝から晩までバスに乗ってドゥルガー・プージャを見てまわって来た。

 ドゥルガーとは、ヒンドゥー教のシヴァ神の妃であるパールヴァティー女神の化身の一つであり、勇ましい軍神である。インド中に信者がいるが、特にここコルカタで熱狂的に信奉されている。

(この一事を見ただけでも、コルカタの人々がいかに熱い気質を持っているか想像出来るだろう)

 絵画や像として表わされる場合、ドゥルガーは多くの場合一面十臂(顔が1つ、腕が10本)の姿で描かれ、足元にはこの女神の眷属(家来である乗り物)のライオンと、女神に倒された魔王マヒシャスラが描かれる。

 まあ、ともかくメチャクチャ強い女神さまだ。ヒンドゥー最強の神と言えるだろう。

 昨今は、毎年この時期になると地域やコミュニティーが巨大な像を造って「うちのドゥルガーさまが一番じゃ!」と競い合うようになった。そうした風潮が当たり前になり、今では毎年のように大手企業がスポンサーになってコンテストが行なわれている。

 コルカタの到る所には巨大パヴィリオンが立ち並び、立派な神像が安置されている。審査員らの投票によって順位が付けられ、上位を獲得したコミュニティーには多少の賞金と何らかの商品、そして何より最大の名誉が与えられるわけだ。

 これらの神像とパヴィリオンは、5日間の祭りが終わればことごとく川または海に流されてしまう。
 祭りは良いのだが、個人的にはそのあとの水質汚染が心配である。
  
ドゥルガー女神(中央)に成敗されるマヒシャスラ(右下の男)。コルカタの到るところに、
このような人形(神像)が飾られている。等身大以上の巨大なものが主流だ


  
神像を飾るためのパヴィリオン。左はアンコールワット遺跡を模して造られた神殿。右は素焼の鉢だけで
造られた神殿。これらのパヴィリオンは、5日間の祭りの終了と同時に跡形もなく片付けられてしまう
●10月19日(金)
 
 朝、起きてみたら異様に肩が凝っている。冗談抜きでコルカタ(凝る肩)になってしまった。昨夜、天井の扇風機を付けっぱなしで寝て冷えたのがいけなかったようだ。

 今日は午前中にラジオ番組の収録(30分番組)。

 そのあとフーグリ河の脇にあるシャーナガール電気斎場へ行ってきた。たくさんの死体が並べられ、焼かれる順番を待っていた。

 この火葬場(屋内)では、1度に3体の遺体が並んで荼毘に付される。遺体が焼かれる約45分間の所要時間のあいだ、次の3体は床に寝かされ焼かれる順番を待っている。日本と違い棺桶に入っているわけではないので遺体は丸見えだ。

 葬儀場は全体に清潔で、遺体に蠅がたかっているようなこともなかったし、焚きしめられた線香のせいか悪臭もなかった。

 あたりには、全部で50〜60人の付き添いの人々がいただろうか。しかし、そのなかで泣いていたのはたった1人。床に寝かされた遺体のうち、2体は老人(泣いていたのは老人の妻と思われる)で、残る1体はまだうら若き女性だったが、彼女の夫と思われる男性や兄弟らしき人々は泣いていなかった

 輪廻転生を信じるインドでは、ひとつの死は次の生への束の間の旅に過ぎない。インドの葬儀で泣く人が少ない理由は、そうした思想のゆえと言えるだろう。

 生前の死者とは関係のなかった大勢の人々(私もそのひとりなのだが……)がじっと遺体を眺めていたのも、考えてみれば不思議なことである。

 斎場のあとは、ネタジことスバース・チャンドラボース博物館へ。

 ホテルに戻ったら朝の肩凝りは治っていたが、かわりに少しばかり喉が痛い。今夜は冷房を切り、日本から持参したマスクを着けて寝ることにしよう。
  
ラジオ番組の収録風景。インドマジックから岡倉天心まで、幅広いテーマのフリートークとなった


  
(左)ネタジ(スバース・チャンドラボース)博物館入口 (右)ネタジがデリーへの脱出に使った自動車
●10月20日(土)
 
 朝起きてみると、昨夜の喉の痛みは完治していた。

 そこで今日は少しばかり遠出をし、コルカタの街を流れるフーグリ河がベンガル湾に流れ出す地点に当たるダイヤモンド・ハーバーを訪ねてみることにした。

 地図で見ると、フーグリ河は上流でガンジス河と繋がっていることがわかる。ガンジス河は、流れの途中でヤムナーやソーンなど複数の河と合流し、インドとバングラデシュにまたがる広い河口部分からベンガル河へと注いでいるのだ。

 コルカタの人たちはフーグリ河を「ガンジス」と呼んでいる。地図で見る限り、フーグリ河の水の何割かはガンジス河から流れて来た水のようだから、この呼び名は極めて真っ当と言えるだろう。

 ダイヤモンド・ハーバー自体は、インドの友人に言わせると「休日にピクニックに訪れるための観光地」らしい。

 観光地には興味をそそられなかったので、ハーバーの一角にある小さな漁港を訪ねてみた。いかにもインドの漁港らしいつましさと侘しさが印象的な場所だ。ダイヤモンドというゴージャスな名前が皮肉に感じられた。

 コルカタの街が祭り一色に染まり、オフィスや商店が軒並み閉店している期間中も、この小さな漁村はいつもどおり黙々と仕事を続けている。無言であるだけに、何かひしひしと伝わってくる感情がそこにはあった。

 村の少年たちが父親を手伝って魚を保冷するための氷を運び、文句ひとつ言わずに漁船から網を下ろしている。カメラを見せながら「撮ってもいい?」と尋ねると、彼らははにかみながらポーズを取ってくれた。
  
(左)ダイヤモンド・ハーバー。フーグリ河はここからベンガル湾へ流れ出してゆく(右)漁船と海の男たち


  
父親を手伝い魚を保冷するための氷を運ぶ少年たち。少し愁いを帯びた笑顔が印象的だ
●10月21日(日)

 インド滞在50日目の今日は、18年来の友達にして世界的マジシャンであるP・C・ソーカ(ジュニア)氏のご自宅へ遊びに行って来た。

 ソーカ氏のことは拙著『インド大魔法団』でも詳しく書いているし、昨年はフジテレビの「めざましテレビ」でも紹介させていただいたので、ご覧になった方もいらっしゃると思う。

 先代のP・C・ソーカ氏(ジュニアの父上)は、天才興行師神彰(じんあきら)氏のプロデュースにより、日本でも何度かマジックショーを開催なさっている。

 そんなこともあって、ソーカ家の人々は「家族そろってお寿司が好物!」と言うほどの日本通だ。

 プロディップ(ジュニアのことを私はこう呼んでいる)とは18年前から、「何か面白いイベントをやろうよ」と約束しているのだ。そして2人とも、「やるなら今かな」と感じ始めている。

 というわけで今日は、マジックショーの可能性について打ち合わせてきた。なにしろ古い友達だから話はトントン拍子に進んでいる。なるべく近い将来、プロディップのマジックを日本で紹介したいと思う。

 それにしても今日はドゥルガー・プージャ最終日。コルカタの人々にとっては今日が1年を通じて最大の祝日だ。そんな大切な日を私と過ごしてくれた御一家に、改めて深く感謝。

P・C・ソーカ(ジュニア)御夫妻と



御夫妻の娘さんたちと。右端のマネカさん(長女)は
インド史上初の女性のプロマジシャンである
●10月22日(月)

 今日は朝からマザー・テレサが設立した「孤児院」と「死を待つ人の家」で過ごした。

 コルカタに来るたび、この2か所には必ず立ち寄ることにしている。特に「死を待つ人の家」は、道で生き倒れになりかかっていた人など、文字どおり社会から見捨てられた人々が最後に拾われて来るところだ。

 運良くここへ連れて来てもらうことが出来れば、もう野垂れ死にをする心配はない。三度三度の食事ももらえるし、病気や怪我の治療を受け、シスターたちに見守られながら安らかな最期を迎えることもできる―。

 ここへ来るたび、私は死を待つ人々の手を握って色々なことを話しかける。彼らも一生懸命な表情で、色々なことを話してくれる。相手が今日逢ったばかりの見知らぬ外国人であることなど、彼らにとって大きな問題ではないようだ。

 こんなとき、人間はただ温もりと話し相手が欲しいだけなのかも知れない。重要なのはシェアすること。ただ手を握って「大変だったね」と共感してもらえるだけで、もう充分なのかも知れない。

 このあとはアカデミーに戻り、午後3時からレクチャー

 今日の聴講者はコルカタ在住の作家、評論家、大学教授らで、レクチャー後は驚くほどホットな質疑応答が交わされた。

 噂によればベンガル人(コルカタをはじめとするベンガル地方の人々のこと)はインドで最も感情的な人々なのだそうだ。今日の質疑応答を見る限り、確かに彼らは熱く激しい。さすがに詩人タゴールを生み、インド独立運動の闘士スバース・チャンドラボースを育んだ土地だけのことはある。

 クールなニューデリーとは正反対の印象が残った。
  
インド国立文学アカデミーにおけるレクチャーの様子。他の土地に比べてホットな人たちが多い印象だ
●10月23日(火)

 朝食後、ゆっくりホテルをチェックアウト。13:00コルカタ発のインディアン・エアラインズ便でバグドグラ空港へと飛んだ。ここで四輪駆動車に乗り換えて、紅茶で有名なダージリンを目指す。

 くねくねと曲がりくねった山道を揺られること約2時間。途中、ケルセオンの村に差しかかったので、ここでしばし休憩を取ることにした。

 あたりは見渡す限り一面の茶畑だ。村でいちばん大きな茶店に入り、迷わずダージリン紅茶モモ(チベット風の餃子)をオーダーする。

 紅茶は、茶器こそ素朴だが非常に美味しかった。気候がドライなせいか、ヒマラヤをドライブしていると実によく喉が乾く。普段ならば1杯で充分なはずの紅茶を、今日は4杯もお代わりした。

 さらに北上を続け、とっぷりと日も暮れた夕方7時頃、ダージリン到着。

 たいした防寒着を持っていなかったので、まずはローカルマーケットでウィンドブレーカーを購入。150ルピー(約450円)也。このほかに10ルピー(約30円)の手袋も買って、これで装備は完全だ。

 夜になってもひどく喉が渇いていたので、ホテルのレストランで久々にお酒を飲む。しかし注文したBaccadi Breezerは、飲み始めてからよくよく見たら賞味期限が1年半前に切れていた(苦笑)。
  
ケルセオンの村で立ち寄った茶店と、そこで飲んだダージリン紅茶
●10月24日(水)

 朝3:30に起床し、ご来光を仰ぐためにタイガー・ヒルへと向かった。ここは世界第3位の高峰カンチェンジュンガを臨む高台にあって、朝日が美しいことでつとに有名な場所だ。私にとっては今回が2度目、12年ぶりの訪問である。

 日の出の予想時刻は5:30とのことだったが、今朝はあいにく厚い雲に覆われており、5:30を過ぎても太陽は一向に姿を現わそうとしない(カンチェンジュンガも全く見えない状況)。

 諦めの早い人たちはゾロゾロ帰りはじめ、私に同行していたガイドのおじさんも、「マダム。今日は太陽を拝むのは無理です。帰りましょう」と言いながらさっさと帰り支度を始めてしまった。

 私が「5分だけ待って。必ず太陽は姿を現わすから」とガイドのおじさんを止め、待っていたところ、案の定5分後には雲の合間から太陽が姿を現わした。

 「5分後に太陽が出るってなんでわかったんです?」と怪訝そうな顔のおじさんに、「そりゃわかるわよ。なにしろ私は日出ずる国(the country of Rising Sun)から来たんだから」と笑いながら答えると、おじさんは神妙な顔になって「お〜!」と驚いていた。

 このあとホテルへ戻り、9時からネパール語の作家やチベトロジー(チベット学)の研究者らと懇談会。
 昼食後は歴史あるブティア・バスティー寺へ。

 夕方にはダージリンをあとにし、シッキムの首都ガントークへと続く山道をひた走った。ガントークへと続く道は曲がりくねった山道で、一面にお茶畑が広がっている。茶摘みは女性の仕事で、その収入は朝から晩まで働いて1日50ルピー(約150円)程度とのことだった。

 シッキムはネパール、ブータン、チベット、ラダックと共にかつてヒマラヤの五王国のひとつだったところで、今も(中国との国境に位置するため)外国人は入域許可証がない限り入域を許されない。その意味でシッキムは、同じヒマラヤでもラダックより管理が厳しいと言える。

 無事にガントークにたどり着いたときには、既にとっぷりと日が暮れていた。

 アカデミーが用意してくれた宿はシッキム最高のロイヤル・プラザ・ホテル(5つ星)。今日はたまたまホテルオーナーの長男の1歳の誕生日とのことで、宿泊客の夕食は飲み物も含めてすべて無料であった。ラッキー!
  
(左)ご来光を仰ぐべく「タイガー・ヒル」に集まった人々 (右)ご来光

  
(左)ブーティア・バスティー寺にてチベット仏教の研究者らと (右)茶摘みを終えて家に帰る女性たち
●10月25日(木)

 朝食後、市内のチベット仏教寺院をいくつか訪ねる。

 そのあとロープウェイに乗り、空からシッキムの街を見物してみた。どの建物の屋上にも、洗濯物がただ並べて干してあるのが印象的だ。あんなに簡単な干し方(※洗濯ばさみはおろか重石も使っていない)で、風で吹き飛んだりしないのか?

 午後2時からはシッキム・アカデミーのメンバー(作家、大学教授、詩人など)を対象としたレクチャーを開催。

 開始予定時刻の2時少し前に会場に行ってみたところ、驚いたことに既に出席者全員が静粛に着席していたではないか。これは一体どうしたことか。この時間厳守ぶりは、インドの他の地域ではありえなかった事態である。

 インドでは一般に、約束の時刻より1時間ほど遅れて来るのがあたりまえで、私自身が行なった一連のレクチャーに関しても、聴衆が予定時刻に集まってくれたことは一度としてなかった。今回のインドで唯一、約束の時刻がきちんと守られた稀有な土地、それがシッキムなのだ。

 にわかにシッキムへの好感度がアップすると同時に、あのインド的ないい加減さが懐かしくもなった私は、本当にワガママな人間だ。

 夜になってホテルに帰ってみたら、この50数日間の疲れが出てきたのだろう、肩と腰が猛烈に凝っていることを実感。早速レセプションへ行って「このあたりにマッサージ師はいるか?」と尋ねたところ、「揉んで欲しいならバーバーに行け」と言われる。

 言われるがままにバーバー(床屋)へ行ったところ、椅子に座ったままの姿勢で上半身を前に倒すように言われ、その体勢のまま頭、肩、背中、腰を揉んでもらうこととなった。

 約30分間のマッサージにシャンプー(※ただしお湯ではなく冷水使用)もついて、料金は80ルピー(約240円)也。肩の凝りはまあまあ取れたが、腰のあたりは凝ったままだ。やはり、椅子に座ったままの前傾姿勢での腰揉みは無理だってば。
  
(左)チベット仏教の見習い僧たちと (右)シッキム・アカデミーの会員を対象としたレクチャー
●10月26日(金)

 ホテルをチェックアウト。ヒマラヤのくねくね道を走ること約1時間半、車はルムテックに到着した。

 ルムテックにはチベット仏教カギュー派の総本山がある。寺への入場は無料だが、外国人は入口で外国人登録を済ませなければならない。入口付近には軍隊が常駐し、寺に似つかわしくないものものしい雰囲気が印象的だ。

 このものものしさには理由がある。

 ここカギュー派では従来、最高位後継者であるカルマパ法王はチベット独特の“転生者選び”によって決められてきた。

 つまり、先代の法王が亡くなると、その転生者(生まれ変わり)である“霊童”を探し出すという壮大なリサーチが開始される。霊童探しの末に、先代の生まれ変わりと認定された幼い男の子が次期法王として王座に座るわけだ。

 この方法はチベット仏教ゲルク派におけるダライ・ラマ法王選びとも共通している。
 チベットでは“生まれ変わり”が広く信じられており、このような後継者選びの方法自体は少しも奇異なものではない。

 ところが現在のカルマパ法王選びに関しては政治的思惑がからみ、チベットが認証した後継者と中国が認証した後継者、あわせて2人の霊童が転生者として公表されてしまった。以来、全体のコンセンサスが得られないまま膠着状態が続いているのだ。

 カギュー派の総本山のものものしい警護ぶりの背景には、こうしたキナ臭い事情がからんでいる。
 それを除けば、ここは実に風光明媚で良い場所なのだが……。

 なお、建物の2階には黄金のストゥーパ(仏塔)があって一般公開されているのだが、2階へと通じる通路の脇には「写真撮影および武器持ち込み禁止」の貼り紙が。寺の内部にこんな物騒な貼り紙をしなければならない事態の深刻さを思うと、何とも言えない気持ちになった。

 ルムテックのあとは、さらにヒマラヤのくねくね道を走破して、午後3:30頃ナムチに到着。ここで世界最大のパドマサンバヴァ座像(高さ135フィート=41メートル強)と対峙する。

 パドマサンバヴァはチベットの空海とでも呼ぶべき、昔の偉いお坊さんだ。ちなみに私は現在、このお坊さんに関する修士論文を書いている。パドマサンバヴァに関しては、またいつか詳しく書こうと思う。

 今夜はこのままナムチで一泊する。
  
(左)チベット仏教カギュー派の総本山 (右)世界最大のパドマサンバヴァ像
●10月27日(土)

 早朝にホテルをチェックアウトし、ナムチからバグドグラへの山道をひたすらドライブ(と言っても当然ドライバー付きだから、自分で運転しているわけではないが)。

 途中で庶民向けの食堂に立ち寄った以外は、ひたすらデコボコの悪路に耐えに耐え、昼前にバグドグラ空港に到着。12:15発のインディアン・エアラインズ便に乗って、首都デリーへ飛んだ。

 久々に見るデリーは、目が覚めるほどの大都会だった。飛行機の窓からデリーの街並みを見下ろし、その大きさに単純に感激。

 インド国立文学アカデミーから差し向けられた車に乗って、今日からの宿となるインディア・インターナショナル・センター(IIC)へ向かう。それにしてもヒマラヤから降りてきた身には、デリーの外気温35℃は暑い。

 そう言えば、日本はもう秋も深まった頃だろうか。帰国したらまず紅葉が見たい。そしてお蕎麦が食べたいと不意に思った。

 9月2日に旅を始めてから、日本を懐かしく思い出すことはほとんどなかった。いつもならすぐに恋しくなるお寿司と温泉も、今回は何故か一度も思い出さなかった。

 ヒマラヤから外気温35℃のデリーに帰って来た途端に日本の紅葉とお蕎麦が懐かしくなったのは、つまり、自分の中でそろそろ旅が終盤に近づいてきたということだろうか。
  
モモ(チベット餃子)を食べるために立ち寄った、どこにでもあるような庶民的食堂。右は厨房の様子
●10月28日(日)

 今日は夕方まで仕事がなかったので、朝からデリー観光と洒落てみた。

 かつて6年間も暮らした場所を今さら観光するのもおかしなものだが、久々に見るデリーの観光地はそれなりに斬新に私の目には映った。

 まずは、かの有名なタージ・マハールのモデルになったことで知られるフマユーン廟へ。

 じっくり時間をかけて回ったあと、コンノートプレース(デリーの中心部に当たるショッピング街)にあるニルラズでアイスクリームを食べた。ニルラズはデリーの代表的なファーストフードのチェーン店。清潔で価格もリーズナブルなので、よく利用している。

 夕方からはアーユルヴェーダのオイルマッサージを受けた。

 このマッサージも決して悪くはないのだが、本音を言えばピンポイントでツボを押してくれる指圧が懐かしい。オイルマッサージはあくまでもスーツと流れるようにマッサージしてくれるだけで、ツボを押すという感覚はないのだ。

 何と言うか、刺激が足りない! ……もちろん、これは単に私のワガママである。

 夜はオールド・デリーのチャンドニーチョークをそぞろ歩く。ここはデリーの下町で、職人さんたちの小さな店が軒を並べるごちゃごちゃと混み合った地帯だ。しかし昨今はこんなところにもマクドナルドが進出していてビックリ。

 インドでは、マクドナルドはジャンクフードの店というよりむしろプチ高級店の部類に入る。チャンドニー・チョークの住民(低所得者層が多い)がマクドナルドで食事をするとはとても思えないので、おそらく観光客がターゲットなのだろう。

 このあとさらに有名な観光地のラール・キラー(「赤い砦」の意味)でデリーの歴史を表現したサウンド&ライト・ショーを見たあと、夜遅くなってから出版社へ。数時間前に製本所から出来上がってきたばかりの 'WHEEL OF DESTINY'と対面した。期待どおりの出来栄えに、ホッと胸をなでおろす。

 今回は、私自身が2ヶ月のあいだ絶え間なく旅をしていた関係で、本の制作途中でゲラの校正に関わることも、表紙の色をチェックすることもできなかった。つまりすべてを出版元(Mudra Books)のオーナーであるサナルに一任していたわけだが、彼は期待どおりの素晴らしい仕事をしてくれた。まさに感謝感激雨あられだ。持参したワインで、サナル夫妻と乾杯。

 ちなみに、まだ書店には並んでいない出来上がったばかりの本を前に乾杯するのは、著者にとっては至上の幸福である。サナルたちと乾杯しながら、この2カ月の疲れが一気にスーッと抜けてゆくような満ち足りた幸福を感じた。
  
(左)デリーの観光名所フマユーン廟 (右)デリーを代表するファーストフードのチェーン店「ニルラズ」
●10月29日(月)

 午前中はインド国立文学アカデミーへ。旅を無事に終えたことを報告し、労をねぎらわれる。今夜はレクチャーと本の出版記念会が予定されているため、その打ち合わせをする。

 その後、少し時間があったので、何故か再びデリー観光(笑)。今日はジャンタル・マンタル(古代の天文台)とシーク教の寺院を回った。

 そのあと運転手から勧められたレストランでランチを摂っていたところ、2つ隣りのテーブルからいきなり、

"Aren't you Yamada Mami?"(あなた山田真美じゃない?)

という声がかかった。

 怪訝に思いながら見ると、そこに立っていたのはナント、昔一緒にヘブライ語を勉強したことのあるシルヴェスター(インド人)ではないか。あまりの懐かしさに思わず「わ〜お!」と声をあげてしまった。

 何年か逢わずにいるあいだに、シルヴェスターは結婚しており(しかも奥さんは日本女性)、4歳になる息子さんにも恵まれてとても幸せそうだった。

 ちなみに(これはまだ彼自身にも知らせていないのだが)私はシルヴェスターを拙著の中で紹介したことがある。『3歳までに英語の種をまきなさい』の中に登場する「3ヶ月でスペイン語をマスターした男」とは、何を隠そう彼のことだ。

 久々の短い会話を楽しんだあとシルヴェスターと別れた私は、一旦ホテルに戻り、今日という日のためにムンバイで誂えておいたサリーに着替えた。

 午後5時半からアカデミーにて、今回のインド訪問中最後となるレクチャーを行なう。
 レクチャー後は引き続き'WHEEL OF DESTINY'の出版記念会

 インド文学界の重鎮たちに祝福され、昨夜出来上がってきたばかりの真新しい本の重みをずっしりと手の平に感じながら、あらためて今回の旅の成果を実感したのであった。

 今夜はいつにも増して良い夢を見られそうだ。
  
インド国立文学アカデミー本部(ニューデリー)において開催したレクチャーの様子


  
レクチャー終了後に行なわれた'WHEEL OF DESTINY'出版記念会(右端はサナル・イダマルク氏)
●10月30日(火)

 今日は朝からデリー郊外にある名門校、ライアン・インターナショナルスクールを訪問した。

 「インターナショナルスクール」と銘打ってはいても、ここは「多国籍」という意味でのインターナショナルスクールではない。教師と生徒はほぼ全員がインド人で、国籍に関してはインターナショナルでは全くないのだ。

 ただしここではある程度国際的なカリキュラムが用いられており、また授業に使用される言語は幼稚園から高校まですべて英語。そういう意味では非常に「グローバルな感覚の」学校である。

 ここでは幼稚園、小学校、中学校、高校とすべてのグレードを見学させていただいたのだが、どこの教室へ行っても思っていなかったほどの大歓待を受け、実に心温まる想いをした。

 お礼に即席で少しだけ日本語を教えたところ、これが大いに受けたようで、子ども達が目をらんらんと輝かせながら「日本語をもっと習いたい」と拍手してくれたのは本当に嬉しかった。

 また、高等部の生徒たちとの交流の場では、

「世界の中から貴女はなぜインドを選んだのか」
「死に関する本を書くにあたってなぜダライ・ラマに逢いに行ったのか」

といったディープな質問が寄せられ、結局ここでも45分ほどのトークショーを急遽行なうことになった。

 今回のインド訪問中、私はなるべく多くの機会に乗じて日本文化をインドに伝えるという重大な任務を背負っていた。

 そのためにインド各地でレクチャーを開催し、日本文化の中でも特にインドと関係が深く、また私自身も得意とするテーマ(例えば日本における弁才天信仰の歴史と現状や、「ネタジ」ことスバース・チャンドラボースと日本の関係など)に関する講演を行なってきたわけだ。

 旅の最後にインドの若い人たちとディープに語ることが出来たことは、実に意義深かった。

 学校訪問後は出版社(Mudra Books)へ。ここでは次作の出版計画について真剣かつ具体的な話し合いが行なわれた。

 ここで、私自身の個人的な想いについて少し記しておく。

 日本では知られていないことだが、インドの出版界はイギリスのブッカー賞(ノーベル賞の次に栄誉あると言われる文学賞)受賞作家を輩出するほど英語の出版に強い

 多くの日本人が知らぬあいだに、インドは西洋の顔を併せ持ったアジアの大国に成長していたのだ。そしてインドは間違いなく、これから10年以内に経済力も人口も併せ持った超大国になる。

 そんなインドと私とのあいだには、18年前から極めて濃密な関係が築かれている。これは一体何を意味しているのだろうか……。

 ひとつハッキリしているのは、これからの私が次々に英語で本を書きインドで出版してゆくであろうということ。これは今回の旅の中で決定した、みずからが進むべき次なるステージのシナリオである。

 世界はどこまでも広く、そこには限界など存在しない

 私はそのことを、今回の旅を通じて実感したのだ。いや、むしろ今回の旅は、そのことを認識するための60日間だったのだと言うべきかも知れない。
  
ライアン・インターナショナルスクール(幼稚園から高校までの15年一貫教育)を視察。右端が校長先生
●10月31日(水)

 インド60日目の今日は、古くからの友人たちを訪ねて過ごした。

 そのあとは再び出版社に足を運び、拙著にサイン。今回の本はインドの魔法がテーマゆえ、名前のサインの前に'Abracadabra, Chi Chin Pui Pui!'と入れることにした。

 サインした本の送り先は、今回インドでお世話になったかたがたや、文学関係者など。467ページもある厚い本なので、かなり読み応えはあることと思う。この本が相手に届く頃には、私は東京の家でブースケと戯れているのだろうか。

 友人たちに暇(いとま)を告げた私は、デリー発21:35のエア・インディア直行便にて、一路東京へ。

 機内では珍しくアルコールを飲む気にもならず、夕食を食べ終えたあとは即座に眠りについた。座席に埋もれて見た夢の中で、私は何故か女子高生に戻り、茶室に正座をしてお茶を点てていた。

 そう言えば女子高時代、私の夢は日本語も英語も自由自在に使いこなせる作家になることだった。無論その頃は、自分の夢がいつか本当に実現するという保証など全くなかったわけだが。

 もちろん、不安がなかったわけではない。それでも何故か私は唯の一度として、自分の夢を疑ったことだけはなかったように思う。

 出来ることならタイムマシンに乗ってあの頃の私に逢いに行き、

「未来のおまえはよく頑張っている。おまえはおまえの夢を信じてそのまま進んで行けばいい

と優しく肩を叩いてやりたい。そんな気持ちにさせられる夢だった。

 翌朝(11月1日)、9時少し前に成田到着。外気温が15℃とのアナウンスあり。風邪をひかないよう気をつけなければ。

 家に帰ったら、まずは熱いお風呂に入ろう。そして今夜のディナーは、シドニーから一時帰国している娘も誘って久々のお寿司だ。

 ……そんなことを考えながら、私は足取りも軽くスカイライナーに乗り込んでいた。 (終)
  
(左)一昨日デリーで出版されたばかりの'WHEEL OF DESTINY'。カバーデザインは娘のLiAによる
(右)魔法がテーマの本なので"Abracadabra, Chi Chin Pui Pui!"とサインを入れることにした
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


今週のブースケの代理はダージリンで
見かけたラサアプソ。シーズーの先祖
にあたるチベットの犬です
事事如意
2007年11月5日
山田 真美