2023年5月2日(第696号)
今週のテーマ: インド北東部への取材旅行 |
前号でお知らせしたとおり、インドへ行ってまいりました。
実に3年4か月ぶりの海外です。
コロナ禍で日本に籠もっている間にインドビザが切れてしまったので、ビザを取り直すところから始めました。
今回の旅の目的は、インド北東部の七州(通称セブン・シスターズ)のうちの、アルナーチャル・プラデシュ州、アッサム州、ナガランド州、マニプール州を陸路でまわり、私が顧問を務める研究所で通常業務を行なったのち、ヒンドゥー教の宗教儀礼や第二次大戦史に関する複数の取材をすること。
個々の成果につきましては後日、新聞や単行本など出版物を通じてお知らせさせていただくことにして、今日のところは旅の概略だけでもご報告させていただきたいと思います。 |

インドの地図。右上に濃い色で示した部分が北東部です。
※地図はWikipedia英語版からお借りしました。 |
まずはエア・インディア便で成田からデリーに入り、27年来の友達であるスシマのご自宅で数日間ウォーミングアップさせてもらいました。
スシマと私は子どもたちが同じインターナショナルスクールに通っていたため、PTAでご一緒だったんです。いわゆるママ友。
当時から気兼ねなくおしゃべりのできる楽しい存在で、しかも年令を重ねるごとに深い話ができる貴重な友達となり、今もデリーへ行くたびに彼女のところに泊めてもらっているんですよ。
今回は、シーズン的にはちょうどマンゴーが出回り始めたところ。
毎日のように大好物のアルフォンソ・マンゴーをいただきながらディープな会話を交わしました。 |

27年来の仲良しのスシマと、フレッシュライムソーダで乾杯!
ニューデリー市内のDilli Haatにて。 |
デリーで数日を過ごしたあとは、空路でアッサム州にあるディブルガール空港へ移動。
ここから2時間ほど車に揺られ、インド最果ての地と言っても過言ではない、アルナーチャル・プラデシュ州の奥地に位置するオヤン(Oyan)という村にまいりました。
ちなみに、同州へ入るためには、外国人はもちろんインド人も入域許可証が必要なんですよ(外国人のビザとは別物)。
そのためアルナーチャルは、地勢的にも政治的にもインドで一番足を踏み入れがたい場所というイメージで語られることが多いように思います。
私にとってはこれが三度目のアルナーチャル・プレデーシュ州訪問でした。
オヤンには、私が古くから家族づきあいをしているオマーク・アパングさんの御一家が暮らしています。
オマークさん一家は広大なティー・プランテーション(茶畑)を経営していらっしゃるんですが、それだけではありません。
実はオマークさん、20代の終わり頃には、インド国の観光大臣を務めたことがおありなんです。
たしか史上最年少(当時)だったのではないでしょうか。
その頃から日本へ何度も足を運ばれ、「学ぶべきは日本の技術と文化」という考えをお持ちだったオマークさん。
政治の世界から身を引いたあと、2019年に、土地の若者たちの将来を見据えてヒマラヤ・グローバルスキル研究所(HIGS)を立ち上げ、日本語コースをスタートさせました。
アルナーチャルの若者に日本語を学ばせ、日本での就労を通じて日本の技術や文化を体得させるためです。
技術と就労機会が不足しているアルナーチャルの人々にとっても、人手が足りない日本にとっても、これは間違いなくウィン・ウィンの関係でしょう。
私はオマークさんが立ち上げたHIGSの趣旨に賛同し、顧問の一人として学生に直接指導したり、先生方の日本語をチェックするなど、運営をお手伝いをしているわけなんです。
折も折、HIGSで学んだ第一期生が、このたび日本に仕事を得て来日することになりました。
そして、そのうちの4人がわざわざ私に会いに来てくれましたたので、来日前の彼らの日本語のブラッシュアップ講座を開講しました。
コロナ禍のため授業もままならず、ポテンシャルが下がり、本当に日本へ行けるのだろうかと不安になる日々も続いたでしょうが、それに黙々と耐えて勉強し、初志貫徹した若者達です。
今後は日本各地に散らばりますが、日本人によく似た顔立ちの本当に良い子たちですので、どこかで見かけたら優しくしてあげて下さいネ。
皆さま、どうかよろしくお願いいたします。 |

この方がオマーク・アパングさん。私にとって弟のような存在です。
(次女の方が生まれたときは、私どもが名付け親を務めました。)
お茶園の入り口にて。

オマークさんのご自宅とゲストルームは、すべて広大な
お茶園の中にあります。ここは皆が集まってお喋りしたり
軽食を楽しむためのお部屋。

HIGSで日本語を学んだ学生さん達(第一期生)。この日は
彼らの日本語の最終ブラッシュアップ講座を開きました。
今月ぐらいから日本各地へと旅立ちます。

この日は仕立て屋さんを家に呼び、民族衣装を何着かオーダーメイド。
なんという贅沢。一瞬、お金持ちのマダムにでもなった気分です(笑)。

↑にわかマダムの図(笑)。

こちらは村のハズレの方に住むヒーラーの女性。生まれた時から
いわゆる霊感が鋭く、村の人達の病気を治し続けてきたとのこと。
ご本人の哲学で、謝礼金は受け取りません。患者は庭で採れた
野菜をお礼に持っていきます。この日はオマークさんのおうちまで
出張なさったので、私も診てもらいました。 |
オマークさんのところで数日を過ごしたあとは、陸路で南下。
世界最大のリヴァー・アイランド(川の中の島)として知られるマジュリ島(アッサム州)に初上陸しました。
この島は、マハーバーラタやラーマーヤナなど神々の物語を演じる際に使われる仮面づくりでつとに知られます。
仮面づくりはサトラと呼ばれるお寺で行なわれ、多くの職人さんが代々継承していらっしゃいますが、その中なかでも名工の呼び名が高いのがヘム・チャンドラ・ゴスワミ氏。
今年のはじめにインドの最高栄誉賞であるパドマ・シュリを受賞なさったばかりです。
(パドマ・シュリの位置づけは日本における人間国宝や国民栄誉賞を想像していただければ近いのではないかと思います。)
今回は、そのゴスワミ氏をインタビュー取材してまいりました。
取材の成果は、今年の秋に刊行される『インド北東部を知るための43章』(明石書店、共著)という本の1章に書きますので、ご興味のある方はぜひご高覧ください。 |

仮面づくりの工房の前で。 |
マジュリ島での取材を終えた私は、さらに陸路で南下。第二次大戦中の激戦地の一つであるコヒマ(ナガランド州)を訪れました。
第31師団(烈)の佐藤幸徳師団長が拠点とされた民家が、なんと今もほぼ当時のまま残されていました。
現在の住民の方に、わずかですが心付けを渡し、亡くなった方々のご供養をお願いしてきました。
コヒマの周辺は、山また山の山岳地帯で、切り立った崖のような地形が連続し、身動きできないほど鬱蒼と茂ったジャングルで覆われています。
一度でも来たことのある人なら、こんな場所に兵を送ることがいかに無謀か一目で分かったでしょう。実際、軍関係者の中にも、この作戦に最初から否定的だった人が少なくなかったようですから。
インパール作戦の結果を知った上でこの地形を見れば、
「こんなところへ兵を送るなんて、人間とはなんと愚かな生き物だろう」
と痛感せずにはいられません。
しかし、これは結果論でしょう。未来の人から見れば著しく愚かしいことでも、当時の人はそれを可能だと信じて実行したのだと思います。神風が吹くと本気で思ったかも知れません。
インパール作戦のような人災は、これからも起こり得るでしょうし、私達が気づいていないだけで、既に起こり始めているのかも知れません。
そのこと(つまり、時に人はありえないほど愚かな判断を下すという事実)を思い出すためにも、インパールでの出来事を誰か個人(牟田口廉也とか……)の責任にするのではなく、一つの戒めとして時々思い出したほうがよいと思います。
人間は時々とんでもなくバカなことをやらかす。
そうならないために、過去から学ぶべきだ。
歴史の勉強は、そのためにある。
……これは、一人の戦争研究者として強く思うところです。
今回、コヒマあたりの厳しい地形を目の当たりにして、ますますその想いを強くしました。 |

佐藤師団長が暮らした民家の入り口部分。
私の右隣は、現在ここに住んでおられる女性です。

キグウェマ村にある建物の壁には、「第二次大戦中の1944
年4月4日午後3時、キグウェマに日本軍が到達した」と書か
れていました。日本人が備えた物らしい卒塔婆には「南無
釈迦牟尼仏陀インパール戦没者慰霊供養塔」の文字が。

今年97歳になるヤノさんに戦争中のことを伺って
きました。「日本兵は村人に対して何も悪いことは
しなかった。イギリス軍はひどいことをした」と、
淡々とした口調で語ってくださいました。

こちらは村の女性。織物で生計を立てて
いらっしゃいます。出来立てのショール(私が
肩に掛けているもの)を売っていただきました。
3~4日かけて作って500ルピー(約1,000円)。
同い年であるとわかり嬉しくなって記念撮影!

コヒマの町の様子。斜面にぎっしりと家々が建て込んだ
様子は、北インドのシムラやダラムサラを彷彿させます。 |
コヒマからさらに陸路で南下して、一路、今回の旅の最終目的地であるインパールを目指しました。
インパールは3年半ぶり、二度目の訪問となります。
コヒマ~インパール間は道が悪いと聞かされてはいましたが、いやあ、聞きしに勝る悪路でしたよ。
途中、土砂崩れで道が崩落している箇所もあり(注:それが日常茶飯事のようです)、せっかく走った道をまた逆戻りして迂回路を探すなど、移動にかなり手間取ってしまいました。
インパールでは、主に戦場跡を見て回りました。
この辺りの戦史にお詳しいアランバンさんの解説付きでしたので、当時の様子が実によくわかりました。
このほかに同行してくださったのは、3月に北海道大学で博士号をお取りになったばかりのソニアさんと、インド工科大学の准教授に就任されたばかりのアナンドさん。おふたりにも大変お世話になりました。
インパールに関してはまだまだ知りたいことが残されているので、何度でも訪れたいと思います。
次回も彼らとさらにディープなインパールへご一緒したいと願って止みません。 |

インパール市内のカフェにて。
右から順にアランバンさん、私、ソニアさん。

2019年にオープンした平和博物館の前で。
右から順に、アナンドさん、私、ソニアさん。

戦争中、日本軍の占領下にあった村。現在最長老のトム
ポックさん(正式年齢不詳、100歳余り)が当時の様子を克
明に語ってくださいました。このあたりには日本兵の遺体
が今も埋まっている由。「自分が死んだら、正確に話せる
者がいなくなってしまう」と大層心配しておられました。

日本軍と組んでインド独立のために戦ったINA
(インド国民軍)の建物も当時のまま残っていました。
歴史の説明をしてくださったアランバンさんと。

旅の最後に、インパールで占星術師に観てもらいました。
バラナシの大学でヒンドゥー教を深く学んだ先生で、占星術と
統計学にもとづいた占い方のようでした。いわゆる占い師
特有の怪しさはなく、理詰めな感じが面白かった。そして、
なかなかよく当たりました! |
……というわけで今回は、茶畑の中の日本語学校から始まって、世界最大のリヴァー・アイランドでの仮面づくり、第二次大戦中のインパール作戦、さらにはヒーラーから占星術師まで、実に不可思議で、学ぶことが多く、広く深いインド北東部の旅となりました。
最初に書きましたように、今回取材したことは新聞や単行本など出版物にてお読みいただけるようになる予定ですので、その際にはぜひご高覧くださりますよう、よろしくお願いいたします。
最後に、今回インドでいただいた食べ物(の一部)と、お土産として買ってきた品々(の一部)の写真をご覧に入れまして、無事帰国のご挨拶に換えさせていただきたいと思います。
日本はゴールデンウィーク真っ只中ですね。
皆さまには、楽しく、健やかな日々をお過ごしください。
ではでは、ナマステ♪ |




今回いただいた最大ボリュームの食事が
↓↓↓こちらのタリ(インド式定食)。絶対に
食べ切れるはずがないと思っていましたが
あまりの美味しさにペロリ。自分の胃袋が
コワい(苦笑)。


今回はサリーやショールを人からいただき、自分でも買ったり
して、帰りのスーツケースは布だらけでした。写真に写っている
のはその一部。マジュリ島で買い求めた3個の仮面や、インド
の超有名ビスケット「パーレG」などもお土産に持ち帰りました。 |
▼・ェ・▼今週のクースケ&ピアノ、ときどきニワトリ∪・ω・∪

ママの留守中も、ピアノは良い子でいたよう
です。クースケは散髪前で髪がぐしゃぐしゃ
なので、今回はお休み(笑)
(※前号までの写真はこちらからご覧ください) |
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