2007年10月14日号(第279号)
今週のテーマ:六十日間インド一周(その四) |
●10月8日(月)
昨夜22時30分の寝台列車「ハンピ・エキスプレス」でバンガロールを発ち、今朝の8時にハンピ到着。
ハンピは14世紀から16世紀にかけてヴィジャヤナガラ帝国の首都だった場所で、町全体が広大な遺跡群だ。ユネスコの世界遺産に指定されているが、すっかり寂れた町はほとんどゴーストタウンといった趣である。
ハンパじゃなくヘンピな場所だが、実際ハンピはもともとヘンピという地名だったらしい。おかしな話だ。
今日はこの町をカンナダ大学のクンタル教授の案内で1日歩いた。
ここは実に奇妙な場所だ。到るところに巨大な岩が転がっており、ほうぼうに見られる低山も、よくよく見ると岩の塊。そして遺跡もすべて石で出来ている。見渡す限り石だらけなのだ。
石の文化ここに極まれりという感じだが、その脇には瑞々しいマンゴーやココナッツの巨木が生い茂っている。どうにもおかしなコンビネーションだ。
今日は楽しい体験を2つした。1つはマンゴーの森の中を歩いたこと。もう1つは象の鼻で頭を撫でてもらったこと。
ちなみに、マンゴーの森の奥にある“MANGO TREE”という名のレストランは実に雰囲気が良い。席が階段状に造られているため、どの席に座っても川の眺望が素晴らしいうえ、店の中心にはマンゴーの巨木が生えていて、太い幹からブランコが吊るしてある(ブランコは大人も利用可)。
ここで飲んだマンゴーシェイクは最高に美味しかった。 |
(左)ハンピ遺跡の代表的な塔の前で、カンナダ大学のクンタル教授と (右)トゥンガバドラ川の風景。
ハンピ一帯には大きな岩がゴロゴロ転がっている。遠くに見える低山も、実はたくさんの岩の塊である
(左)レストラン“MANGO TREE”への入り口 (右)寺院の守り神として飼われている象のラクシュミーと |
●10月9日(火)
朝からカンナダ大学に赴いてレクチャーをした。今日の聴講者は、同大学の教授・助教授限定である。
レクチャーのあとは学内を見学させてもらったのだが、ともかく吃驚するような広さである。700エーカーの広大な土地に、生徒数わずか約150人(全員が博士および修士課程の学生)、教授陣および事務方を合わせた職員が200人。全体で学内人口350人という過疎ぶりなのだ。
キャンパスを歩いていても人に逢うことは滅多になく、学内での移動には自動車が必須。
しかし、こんな過疎地にありながらも国際会議を含む会議が頻繁に開かれるらしく、講堂などの施設が充実していたのも衝撃的だった。
夕方、アジア最大のクマ保護区(Daroji Bear Sanctuary)を見に行く。クマは広大な山の中に棲息しているため、遙か遠くから見ることしか出来ないのだが、ゆっくり行動を観察してみると、なかなかオチャメな生き物のようだった。
夜はクンタル教授の御自宅に招かれ、夕食を御馳走になった。 |
(左)カンナダ大学の教授陣を対象としたレクチャーの風景(右)ナラヤナ学長から記念の盾を贈られる
画面下方の黒い点は3匹のクマさんである(保護区にて) |
●10月10日(水)
インドに来るたび、私は逢う人ごとに「この辺にマジシャンはいませんか」と尋ねまくっている(笑)。
今回もそのようにしておいたところ、カンナダ大学で民俗学を教えている先生が、「います、います。マジシャンに逢いたいなら連れて行ってあげましょう」と言ってくださった。
そんなわけで、今日はマジシャンに逢いに行った。
そこで見たことや交わされた会話の詳細はここには記さないことにするが、彼は例によってイスラム教徒で(注/インドのストリートマジシャンにはイスラム教徒が圧倒的に多い)、このあたりでは一般にラジャモディと呼ばれている白魔術系のマジシャンである。
これとは別に、ラナモディと呼ばれる黒魔術系の残酷なマジシャンも存在する。
ちなみに、この土地の言葉ではマジックのことをジャドゥーという。ぼんやり聞いていると「邪道」と聞こえて、ちょっと恐ろしい。
今夜は19:55発の寝台列車でハンピを発ち、再びバンガロールへ向かう。 |
(左)この男性は白魔術系の“ラジャモディ”のひとり。見た目はごく普通の人だ (右)彼の父親(故人)が
一夫多妻婚をしていたため、彼には2人の母親がいる |
●10月11日(木)
今日は最高に忙しい1日だった。
朝の7時に寝台列車(蚊に刺されまくってほとんど眠れなかった)でバンガロールに到着。ホテルにチェックイン。15分で朝食を済ませてゾロアスター教の寺院へ。
司祭のウンヴァラ氏からゾロアスター教にまつわる様々な事柄を教えていただいたあと、本来ならば信者以外が入ることは難しい図書館の中へ特別に入れていただき、調べ物をした。
さらには司祭から、ペルシャ語で書かれたアヴェスタ(ゾロアスター教の経典)を贈られた。
この宗教について書き始めると長くなるのでやめておくが、信者は全世界で10万人程度しかいないと言われ、その大多数がインドに住んでいる。もとはイラン(当時の名はペルシャ)の宗教だが、侵攻して来たイスラム軍から「改宗か死か」と迫られ、命からがら船でインドに亡命して来た平和を愛する人たちである。
図書館での調べ物が済んだあとは、街からだいぶ離れた森の中にある沈黙の塔を訪ねた。
ゾロアスター教徒が亡くなると、遺体は鳥に与えられる(鳥葬)。その際に遺体を置く場所が「沈黙の塔」と呼ばれる施設で、いかなる理由があっても―信者も非信者も―塔の内部に入ることは許されない。
本来なら、非信者は周囲の森に入ることすら許されていないのだが、今回は特別に許可をいただいて、沈黙の塔の数メートル手前まで立ち入らせていただくことが出来た(当然、写真撮影は不可)。
塔のあとは街へトンボ返りし、ムンバイに住むカイザードの義妹に当たるダイアナと落ち合う。彼女はかつてチョコレート工場を経営していたこともあるユニークな女性で、工場を閉じた今は社会活動に没頭している。
彼女が関わっている狂犬病撲滅活動の一端を見るために国立伝染病専門病院に行き、狂犬病患者が入院する檻(おり)のような病室を見て来た。……凄まじい環境だった。信じがたい話だが、この国ではいまだに年間30,000人が狂犬病で死亡しているのだ。
病院見学のあとは、猛烈ダッシュで18時から始まるレクチャー会場へと移動。
今夜のレクチャーには、バンガロール在住の知識人が大勢集まってくれた。映画監督のチャンドラセカール氏は撮影現場から駆けつけてくださったし、ダイアナも友達を連れて来てくれた。お蔭さまでレクチャーは大好評、予定の1時間で話を終えようとしたところ「もっと聞きたい」という声と共に拍手が起こり、終了したのは20時だった。ありがたいことである。
レクチャー終了後はダイアナの招待でおしゃれなレストランへ。夜遅くまでビールと海老料理で歓談。
……とまあ、自分で書いていても目が回るほどのハードな1日であった。
で、今ふと気づいたのだが、そう言えばインドに来てからただの1日も休んでいない。しかし私は自分でも驚くほど元気だし、もっともっと動き回りたいぐらいだ。
かつてなかったほどインドが楽しいのは何故? |
(左)ゾロアスター教寺院のウンヴァラ司祭と (右)この小径の奥に“沈黙の塔”がある
(左)レクチャーを聴きに来てくれたジャーナリストの女性と歓談中 (右)レクチャー中の一コマ
(左)インド国立文学アカデミーバンガロール支局長のバラグルムルティ氏と (右)レクチャーの
打ち上げにと訪れたレストランで、左からダイアナ、私、ダイアナの友達のターヤ |
●10月12日(金)
午前8時15分バンガロール発の特急列車でチェンナイへ向かう途中、シドニーで暮らす娘のLiAから携帯に電話が入った。黒川紀章先生が亡くなったという報せだった。
昨年から体調がお悪いのはわかっていた。「ついにその時が来たか……」。万感の想いを込めながら、車窓を流れる南インドの風景に目をやる。
延々と飽くことなく草を食(は)んでいる牛の群れや、ただ風に揺れている椰子の緑などがいつになく新鮮で、単調で平凡な生命の営みが妙に眩しく、愛おしく見えた。
思えば、黒川先生に初めてお目にかかった時から数えて、今年でちょうど20年。歳月は流れたとしみじみ思う。あの頃の私はまだ、インドに最初の一歩を踏み入れてすらいなかったのだ。
ユーモラスな方だった。私のサイトから先生のサイトにリンクする際、「先生のことを何とご紹介したらよろしいですか」と尋ねると、先生は笑いながらこう即答なさったものだ。
「元カレ」
黒川先生が元カレだったというような事実は全くないのだが、先生は何故か私を元カノと勘違いしておられたのだ。以来、先生は私の元カレというジョークが成り立つようになり、それをネタによく盛り上がったものだった。
少し前に先生から「僕はまだインドに行ったことがないんだよ」と言われたことがある。私が、「それじゃ今度お連れしますよ」とお返事をしたところ、「よろしく頼むよ」という答えが返って来た。
残念ながらそれきりになってしまったが、もしも黒川紀章がインドをデザインしていたら、この街はどのように変わっていただろうか―。
強烈な個性の持ち主だった。輝きながら全力で駆け抜けて行った人だった。ご冥福をお祈りします。 |
Sayonara, Kurokawa Sensei. We'll miss you.
写真はすべて、在りし日の黒川紀章先生のお姿。左から1枚目:先生、女優の蜷川有紀ちゃん、私。
2枚目:先生と私(2002年開催の日本文化デザイン会議にて)。3枚目:先生と私(古希のお祝いパー
ティーにて)。4枚目:(左から)漫画家の故・中尊寺ゆつこさん、先生、私、実弟の黒川雅之さん |
●10月13日(土)
昨夜チェンナイに到着したばかりだというのに、今日は早朝に起き、チェンナイからさらに百数十キロ離れた街へのドライブ旅行を敢行した。
行き先はポンディシェリー。多くのガイドブックがPondicherryを「ポンディシェリー」とフランス語式に表記しているのは、かつてここがフランスの植民地だったから(ただしインド人自身は「ポンディチェリー」と英語読みしている)。
私は旅をするペースや見たい物の好みが一般の人とはだいぶ異なるので、本当はひとりで街を歩く予定だった。しかし現実には、何故かインド国立文学アカデミーチェンナイ支局長の御一家が同行してくれている。
「ひとりで大丈夫ですから」と支局長には言ったのだが、「いやいや。私も行きます。家族も連れて」と、1歳半の赤ちゃんまで連れて来てくれた(笑)。
……というわけで、当初の予定とはかなり趣の異なるほのぼの家族旅行となった。
ポンディシェリーの文化の中心は、インドの高名な哲学者シュリー・オーロビンドが1926年に創設したアシュラム(ヨーガや瞑想などをする宗教道場のこと)である。
また、ポンディシェリーと隣接するオーロヴィルの街は、国家や宗教といった枠組に囚われることなく自由に暮らせる場所をめざして1968年にオープンした一種の国際コミュニティーで、30ヶ国以上の国々から集まって来た人々が暮らしている。
ちなみにポンディシェリーでは道路の名前も‘street’ではなくフランス語で‘rue’と呼ばれているし、警官の頭には赤いケピ(フランスの警官がかぶる帽子)が乗っている。さながらインドのリトルフランスといったところだが、誰も‘rue’を正しく発音できていないのを聞くにつけても、なんだか調子が狂う。
今夜はポンディシェリーで泊まる。 |
(左)チェンナイ支局長のナートゥさん(私の左隣の男性)御一家と (右)オーロヴィルの瞑想室
(左)海辺の街だけあってフィッシュカレーが美味しかった (右)巨大なバニヤンの樹
(左)道端で手相見のおばさんに占ってもらった。「あんたを倒そうとする敵が後ろからたくさん追い
かけて来るけど、あんたのほうがよっぽど足が速いから彼らには捕まえられないよ。安心おし!」と
言われた。見料は20ルピー(約60円) (右)物売りの少年(ポンディシェリーのビーチにて) |
●10月14日(日)
今朝は早起きをして単独行動。ポンディシェリー市内のシュリ・マーナクーラ・ヴィナヤガル寺院(象の神様ガネーシュを祀っている)とイエズス会の無原罪聖母教会を訪ねてみた。どちらも朝の礼拝の最中で、実におごそかな雰囲気だった。
教会からホテルへの帰り道、酒屋に立ち寄りインド産ワインを購入。ポンディシェリーは酒税がゼロで、ありとあらゆる種類のお酒がインド最安値で買えることでつとに有名だ。750ml入りのポートワインが150ルピー(約450円)だった。
その後、ナートゥさん一家と共にホテルをチェックアウトし、有名なマハバリプラム(別名マーマッラプラム)へ。ここはユネスコによって指定された世界遺産のひとつである。インドの観光地の常で、インド人の入場料10ルピーに対し、外国人入場料は250ルピーだった。
この遺跡だけ見ていたら感動したのだろうが、既にカジュラホ、エローラ、アジャンタ、ハンピ(すべて世界遺産)を見ているためか、残念ながら感動は湧き起こって来なかった。と言うか、石の建造物を見過ぎてそろそろ胃もたれしてきた感が否めない。
個人的には、むしろ路傍で営業していたオウム占いのおじさんのほうが楽しめた。
おじさんは、アシスタントのオウム君にカードを選ばせて客の運命を占ってくれるのだが、オウム君はなかなかの芸達者で、おじさんからの質問に対してキーキー鳴きながら相槌を打ったりするのだ。これで見料10ルピー(約30円)は安すぎる!
このあと、近くの塩田や数年前の津波で多くの犠牲者を出した海岸などを訪問してから、夕方になってチェンナイに帰着。ナートゥさん一家とはここで一旦お別れ。
ホテルの部屋に戻り、今朝買ったばかりのポートワインを飲んでみた。思っていたよりもイケる。インドはワインを作り始めたばかりだが、なかなかどうして捨てたもんじゃない。将来に期待しよう。 |
(左)ユネスコの世界遺産に指定されたマハバリプラムの遺跡にて (右)塩田と塩の山
占い師のおじさんとアシスタントのオウム君。たくさんあるカードの中の1枚をオウム君が選んでくれる
マハバリプラムの海岸。津波で約200人が命を落とした現場だが、今はその傷もほぼ癒えたようで、
人々の憩いの場所となっている(ただし潮の流れが速く遊泳は禁止) |
※この続きはこちらからお読みいただけます。To be continued. |
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪
今週のブースケの代理は、動物園で超〜ヒマそうに
していたゴリラ君です |
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