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2004年11月14日号(第153号)
今週のテーマ:父の想い出
山田真美の6年ぶりのノンフィクション作品となる『死との対話』(スパイス・刊)が、11月18日に全国発売されます(東京都内の主要書店には16日頃に配本予定)。左の画像をクリックして、詳しい説明をご覧ください。
※スパイスのホームページはこちらからご覧になれます。
※現在発売中の『和樂』12月号(小学館)に、ダライ・ラマ法王と山田真美との対話が巻頭特集されています。森川昇さんによる写真も満載。どうぞお見逃しなく。

 9年前に脳梗塞で倒れて以来、長く闘病生活にあった父・鈴木寛が、去る11月9日午後10時14分、77歳で永眠いたしました。

 長野市に住んでいる母からの電話で、父の容態急変を知ったのは、その日の午後5時20分のことです。
「血圧が急激に下がっていて、とても危ない状態みたいなの。東京から来るのでは、
もうとても臨終には間に合わないだろうとお医者様は仰っているけれど……」
 とるものもとりあえず、既に学校から帰宅していた中2の息子を連れて上野駅に向かいました。

 医師から「東京からではもう間に合わないだろう」と言われていたにもかかわらず、不思議なことに、(死に目に遭えないのではないか)という気は少しもしませんでした。
 
父は必ず私を待っている。最後のお別れをするために、私が着くまで待っていてくれる。
 確信にも似たそんな予感があって、新幹線の中でも、私は意外なほど落ち着いて、コーヒーを飲んだり、ゆっくり考え事をする余裕すらあったのです。

 そして実際に、父は、私と息子が病院に着くまで
持ちこたえてくれたのです。

 父の枕もとには、母のほか、既に病院に到着していた弟の一家が寄り添うように立っています。
 父は目を瞑ったままで、もう頷いたり言葉を交わすことは出来ませんでしたが、私たちの言葉は明らかに理解しているようでした。
 母と弟と私が、父の手を握り締めながら
昔のことを話しかけると、一旦はゼロに近づいた心拍数がグンと跳ね上がるのです。
 父と母の初デートのこと、家族で毎年行っていた「石の湯」という温泉旅館のこと、楽しかった京都旅行のことなど、思う存分父に語りかけ、
「今まで本当にありがとう」、「何も心配することはないから、安心してね」と、しっかり伝えることができました。

 父が静かに、それこそ眠るように息を引き取ったのは、私が病院に到着してから1時間半ほど経った、
午後10時14分のことでした。

 おそらく何の痛みも、苦しみも、思い残すこともなかったのでしょう。父の死に顔は、それは穏やかでした。
 通夜に来てくれた親戚の人たちが、「寛さんの
こんな穏やかな顔を見たことがない」と言って驚いたほど、その顔は嬉しそうに、ほとんど微笑んでいるようにすら見えました。

生まれて間もない私と32歳の父



保育園の運動会で旗を振り応援してくれた父
 若い頃の父は、どちらかと言うとシニカルで、こんな言葉をよく口にしたものです。

「人間は終末への存在である」
「NO MORE, NEVER MORE.(もうないということは、もう二度とないということだ)」


 厭世的というのでしょうか、若い頃は「終末論」を口にすることの多い人でした。
 父の書棚には、
実存主義者と呼ばれる哲学者たち(キルケゴール、ヤスパース、ハイデッカー、ニーチェ、サルトルなど)の著書が並んでいて、それが若き日の父の思想基盤だったようでした。

 多感な少年期に軍国主義教育を受け、敗戦、そしてアメリカ主導の民主主義導入を目まぐるしく体験したことを思えば、父の世代が
一種のシニカルな思想に走ったのは止むを得ないことかも知れません。

 まだ3歳だった私に、「まっすぐな線をどこまでも引いてゆくと、いつかは最初の点に戻ってくる。それが宇宙だ」と説いた父です。
 自分の子どもに対しても、大人に対するような態度で接する人でした。
子ども扱いされない分、要求されるハードルは常に高く
ちょっとやそっとのことでは褒めてもらえません。
 叱責されることもたびたびで、そういう意味ではかなり厳しい父親だったと言えるかも知れません。

 
私が4歳の時に弟が生まれ、母が弟にかかりきりになると、父は日曜日には率先して私を遊びに連れて行ってくれました。

 そんな時の行き先も、いかにも子どもが好きそうなデパートの食堂(これが今で言うところのファミレス的な存在でした)ではなく、
老舗の蕎麦屋さんです。
「蕎麦は“ざる”に限る。真美ちゃんも、早いうちから
本物の味を覚えなさい

 そう言いながら、私の箸使いを楽しそうに見ているのです。

 このほかにも、スキー、山歩き、軍人将棋、のらくろ漫画など、父からは当時の感覚で言うところの
「男の子っぽいこと」ばかりを教えてもらいました。

 話題の戦争映画
『トラトラトラ』が封切られた時も、父に連れられて真っ先に観に行ったものです。
 お蔭で子どもの頃の私は、一時期すっかり
男言葉になってしまっていたとか。私が今なお重症のお転婆なのは、その時の後遺症なのかも知れません(苦笑)。

 
国家公務員と関西棋院長野支部長の二足の草鞋を履いていた父は、あたりまえですが碁が滅法強く、若いお弟子さんたちがよく家に来ていました。
 “三面打ち”とか“四面打ち”と言って、いくつも碁盤を並べて置き、父はその前に座って複数の人を相手に対戦するのですが、よくもまあ大勢の人を相手に
同時に複数のゲームを戦えるものだと思い、私はただただ感心していました。
 しかし父に言わせると、それは「簡単なこと」だったようなのです。
「要は集中力の問題だ」
とも父は言っていました。
 何か物事に当たる時は、精神を集中してやれ。ぐずぐずしていると、「集中力が足りない」とよく叱られました。

 ちなみに、今回父の葬儀に出るまで、私は父がアマチュア囲碁五段だとばかり思い込んでいましたが、それは私が小学校の低学年生だった当時の話で、実際には随分前から
アマチュア七段であった由。これはアマチュアとしては最高段位だそうです。
 お弟子さんや関西棋院の関係者の皆さんから、父についてお話を伺い、「
父の碁は本当に強かったのだなあ」という感慨を新たにした私でした。

1歳になったばかりの初孫LiAと、戸隠高原にて
 子どもに対しては厳しい父でしたが、その態度は孫が生まれたことによって急変しました。
 世間ではよく、
孫は目に入れても痛くないほど可愛いと言いますが、父の場合がまさにそうで、1985年に初孫(私の長女であるLiA)が生まれてからの父は、母や私が呆気にとられるほど柔和になりました。

 人生観、死生観、宗教観も大きく変わったようで、老境に入ってからの父は、おそらく実存主義思想からは大きく離れていたのではないかと思います。

 それまで長く使われていた「お父さん」という呼び名も、初孫が生まれた時から
「寛(かん)ちゃん」に変わり、父はそれ以来、妻からも子どもからも孫からも「寛ちゃん」と呼んで慕われました。

 
唯一人の男の孫である私の息子(NASA)が、この春に日本棋院の藤沢一就八段のもとで囲碁を学び始めた時は、顔をくしゃくしゃにして、半泣きになりながら喜んでくれた父。
 また2ヶ月前には、初孫のLiAが
第一志望の大学に合格
したことも報告できましたし、今月6日、即ち亡くなる3日前には、印刷所から上がってきたばかりの私の新刊『死との対話』の見本
を病院まで届け、手に取って見てもらうことも出来ました。

 今こうして振り返ってみますと、
父と私の関係は常に真剣勝負でした。
 そのせいでしょう。私には、父に対して思い残したことや、「あの時、ああしておけばよかった」という未練や公開の類いは一つもありません。
 今はただ、「長いことお世話になりました」、「ゆっくり休んでください」と言葉をかけたいと思います。

火葬場で父に手を振り、別れを告げる私。
は湿っぽいムードが大嫌いでしたので、最期
も明るく送り出しました。棺の中には、白黒の
碁石と、『死との対話』も入れました




葬儀のあと、棋譜をもとに、生前の父が打った
囲碁を再現している息子のNASA。白盤は父、
黒盤が誰かは不明です。石を置いてみての息
子の感想は、「寛ちゃんは、さすがに強いね」




父が愛用した扇には、「静観自得」の文字が。
老境に入った父は、まさに「静観自得」の心境
に入っていたのかも知れません
 父が折々に口にした言葉のうち、特に印象に強く残っているものを下に記しておきます。
 これらは主に囲碁に対する父の考え方ですが、囲碁に限らず、人生を生きてゆくうえで大切な、含蓄ある普遍的な言葉ばかりのように思います。

「部分ではなく、常に大局を見よ」
「盤上は宇宙なり」
「勝敗にこだわらず、美しい碁を打て」


 
父の言葉を心に深く刻みながら、明日からも自分の人生をまっすぐに歩いてゆこうと想う私です。
 故・鈴木寛に対する生前のご厚情に、改めてここに深謝いたします。合掌。

※次号「週刊マミ自身」は、11月27日更新予定です。
★今週のブースケとパンダ★


長野をドライブ中、窓から身を乗り
出して外の風景を楽しむブースケ

※前号までの写真はこちらからご覧頂けます。

事事如意
2004年 11月14日
山田 真美