2004年11月14日号(第153号)
今週のテーマ:父の想い出 |
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9年前に脳梗塞で倒れて以来、長く闘病生活にあった父・鈴木寛が、去る11月9日午後10時14分、77歳で永眠いたしました。
長野市に住んでいる母からの電話で、父の容態急変を知ったのは、その日の午後5時20分のことです。
「血圧が急激に下がっていて、とても危ない状態みたいなの。東京から来るのでは、もうとても臨終には間に合わないだろうとお医者様は仰っているけれど……」
とるものもとりあえず、既に学校から帰宅していた中2の息子を連れて上野駅に向かいました。
医師から「東京からではもう間に合わないだろう」と言われていたにもかかわらず、不思議なことに、(死に目に遭えないのではないか)という気は少しもしませんでした。
父は必ず私を待っている。最後のお別れをするために、私が着くまで待っていてくれる。
確信にも似たそんな予感があって、新幹線の中でも、私は意外なほど落ち着いて、コーヒーを飲んだり、ゆっくり考え事をする余裕すらあったのです。
そして実際に、父は、私と息子が病院に着くまで持ちこたえてくれたのです。
父の枕もとには、母のほか、既に病院に到着していた弟の一家が寄り添うように立っています。
父は目を瞑ったままで、もう頷いたり言葉を交わすことは出来ませんでしたが、私たちの言葉は明らかに理解しているようでした。
母と弟と私が、父の手を握り締めながら昔のことを話しかけると、一旦はゼロに近づいた心拍数がグンと跳ね上がるのです。
父と母の初デートのこと、家族で毎年行っていた「石の湯」という温泉旅館のこと、楽しかった京都旅行のことなど、思う存分父に語りかけ、「今まで本当にありがとう」、「何も心配することはないから、安心してね」と、しっかり伝えることができました。
父が静かに、それこそ眠るように息を引き取ったのは、私が病院に到着してから1時間半ほど経った、午後10時14分のことでした。
おそらく何の痛みも、苦しみも、思い残すこともなかったのでしょう。父の死に顔は、それは穏やかでした。
通夜に来てくれた親戚の人たちが、「寛さんのこんな穏やかな顔を見たことがない」と言って驚いたほど、その顔は嬉しそうに、ほとんど微笑んでいるようにすら見えました。 |

生まれて間もない私と32歳の父

保育園の運動会で旗を振り応援してくれた父 |
若い頃の父は、どちらかと言うとシニカルで、こんな言葉をよく口にしたものです。
「人間は終末への存在である」
「NO MORE, NEVER MORE.(もうないということは、もう二度とないということだ)」
厭世的というのでしょうか、若い頃は「終末論」を口にすることの多い人でした。
父の書棚には、実存主義者と呼ばれる哲学者たち(キルケゴール、ヤスパース、ハイデッカー、ニーチェ、サルトルなど)の著書が並んでいて、それが若き日の父の思想基盤だったようでした。
多感な少年期に軍国主義教育を受け、敗戦、そしてアメリカ主導の民主主義導入を目まぐるしく体験したことを思えば、父の世代が一種のシニカルな思想に走ったのは止むを得ないことかも知れません。
まだ3歳だった私に、「まっすぐな線をどこまでも引いてゆくと、いつかは最初の点に戻ってくる。それが宇宙だ」と説いた父です。
自分の子どもに対しても、大人に対するような態度で接する人でした。 |