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2020年4月17日(第642号

今週のテーマ:
ニック(C.W.ニコルさん)とのお別れ
 既にご存知と思いますが、ニックの愛称で知られた作家のC.W.ニコルさんが、去る4月3日、長野市内の病院で亡くなられました。死因は直腸がん。享年79歳でした。

 私にとってのニックは、大いなる兄であり、友であり、先輩であり、そして北信濃に居を構えるご近所さん同士でもありました。

 初めて会ったのは今から37年前

 当時の私はマッコウクジラの回遊を研究すべく、オーストラリア最大の都市シドニーのニユー・サウス・ウェールズ大学大学院に留学していました。

 今と違ってネットどころかファックスさえない時代です。
 しかもあの頃、オーストラリアに暮らす日本人はごく少数でした。

 当然、日本の情報を入手すること自体が容易ではなかったのですが、そんなある日、どなたかから一冊の日本の雑誌をいただいたんですね。

 雑誌の名前は覚えていませんが、日本との貴重のなつながりを得た想いで一頁一頁を大切に眺めていると、卒然、C.W.ニコルさんという人に関する記事が目に飛び込んできたのです。

 巻頭ページではなく、後ろのほうのあまり目立たないページでした。
 まだニコルさんが有名になる前だったのだと思います。

 何気なく読みはじめた記事でしたが、読み進めるに従い、次第に自分の目が点になってゆくのがわかりましたね。

 だって、その人はウェールズ生まれだというのに、なぜか日本の捕鯨船に乗ったことがあると言うのです。
 しかも今は日本在住で、長野県の北のほう(野尻湖の近く)に居を構えていらっしゃると言うじゃありませんか。

 私の頭の中は「?」マークで一杯でしたが、とにかく直感で「この人に連絡を取ろう」と思いました。

 貴重なクジラの話をたくさん聞けそうだと思いましたし、しかも私の実家(長野市)のすぐ近くに住んでいらっしゃることにもご縁を感じましたから。

 しかし連絡を取ろうにも、ご本人の連絡先がわかりません。
 なにしろインターネットがない時代ですから、「ググる」なんて観念すらないわけです。

 記事の中に、ニコルさんがよく行くという「ふふはり亭」というペンションのお名前が紹介されていましたので、ここを経由してお手紙を届けてもらうことを即座に思いつきました。

 雑誌を作った出版社を経由するという方法も当然考えましたが、その時の私は、なぜかこの「ふふはり亭」という不思議な名前のペンションを経由させるのが良いと思ったのです。

 さっそくニコルさん宛ての手紙を書き、事情を話して長野市に暮らす両親宛てに航空便で送りました。

 両親は電話番号帳でふふはり亭の番号を調べ、オーナーに電話
 オーナーの南さんという男性がとても良い方で、それは親切に対応してくださったそうです。

 両親が私の手紙を南さん宛てに速達で郵送

 受け取った南さんがすぐに手紙をニコルさんに手渡したところ、お読みになったニコルさんは大いに驚き、喜んで、シドニーにいる私に宛ててすぐにお返事を書いてくださいました。

 暫くしてニコルさんから届いたお手紙は、今も私の書斎に大切に保管されています。

 それからほどなく、ビザの書き換えで一時帰国した私は、バスとタクシーを乗り継いで野尻湖の近くにあるニックの書斎を初めて訪ねていました。

 あの日のことは、空の青さから草の匂いまで、昨日のことのように鮮やかに思い出されます。
 ニコルさんがいて、奥さまの真理子さんがいて、近所の人までが自由に出入りしていて、笑い声の絶えない、風通しの良い心地よさ。

 あの日から、ニックは私にとってまさに大きな「兄」のような存在になりました。

 2012年夏、ニックの書斎兼ご自宅にて。
 それ以降のニックと私の関係は:

 やはり北信濃にアトリエを持つ日本画家の山田真巳と結婚した私の結婚式の席上、ニックが民族衣装を着て祝辞を述べてくださったり――

 ニックの飼い犬がよそのメス犬に産ませてしまった仔犬の1匹をうちで譲り受けたり――

 ニックがライフワークの『勇魚』(上下巻)を上梓なさったときには、僭越ながら私が書評を書かせていただいたり――

 ニックの本の表紙絵に夫の作品(屏風絵)が使われたり――

 私が『ブースケとパンダの英語でスパイ大作戦』を出版したときには、ニックが帯に推薦文を書いてくださったり――

 お互いの家に家族で集まって会食した回数は、それこそ数え切れません。

 そして、気がつけば37年の時が流れていました。

 20年ぐらい前からでしょうか、ニックは自分が年をとってしまったことに時折り怒りをぶつけ、10代だった頃に戻りたいと言い、"It's not fair!"(あんまりだ!)と言うようになりました。

 永遠に少年のような心の人でしたから、自分の肉体が衰えてゆくことにたまらない違和感があったのかも知れません。

 ニックのお具合が芳しくなかったこともあって、ここ数年は会う機会が減っていたのですが、今年に入ってからなんとなく胸騒ぎがし、1月末頃にお電話をかけて、

私:  「ニック、また喜多郎さん達とみんなで会おうよ」
ニック:「2月に入ってからのほうがいいな
私:  「じゃあ、2月になったらまた電話するね」

と話したのが最後の会話になってしまいました。

2015年夏、ニックの書斎兼ご自宅にて。
 17~18年ほど前でしたか、ニックが私に向かって一度だけこう言ったことがあります。

「マミは可愛い妹だと思ってたけど、気がついたらライバルになっちゃったね」

 そのときのニックは笑っていませんでした。
 ナイフのような目をしていて、少し怖かった。

 その頃ちょうど、精力的に本を書いて出版するようになっていた私。

 こういうとき、普通は「頑張ってるね」とか「ご活躍だね」などの無難な言葉で励ましてくれる人が多いのですが、ニックはそうではありませんでした。
 あのときニックは本気で私を「ライバル」だと言っていたのです。

 そのあたりの遠慮とか忖度とかがない、まさに研ぎ澄まされたナイフのような14歳ぐらいの少年の心を宿したまま大人になった人

 それがC.W.ニコルという人だったのだなと、もう会えなくなってしまった今、しみじみと思い返しています。

 これからはもう、一緒に食事をすることも、笑うことも、歌うことも、「ライバルだ」と言ってもらうことも出来ませんが、私はこれからも休まずに自分の道を生きていこうと思います。

 それが「兄」であり「先輩」であり「友」であるニックへの何よりの餞(はなむけ)になるでしょうから。

 ニック、今まで本当にありがとうございました。
 どうか安らかにお眠りください。R.I.P.
 ▼・ェ・▼今週のクースケ&ピアノ、ときどきニワトリ∪・ω・∪


コロナによる外出自粛中。Stay at home.
トリミングショップに行けないので今日は
私がこの人の散髪をします。本人は決して
喜んでいませんが、覚悟は決めたよう
です(笑)。

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2020年4月17日
山田 真美
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