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2004年10月23日号(第151号)
今週のテーマ:嵐の中を、旅から旅へ
※本日午後5時56分頃から数度にわたって、かなり大きな地震がありました。震源地は新潟県内とのことでしたが、東京でも割と大きな揺れ(震度4)が何度か観測されました。皆さん、余震にはくれぐれもご注意ください!
 日本列島を猛烈な台風23号が吹き荒れていた中、今週はほぼ毎日のように仕事で各地を走り回っていました。
 行く先々で川が氾濫し、暴風雨が吹き荒れ、片端から列車が留まり、そうかと思えば泊まった
旅館のすぐ横で小熊が出没したり(食料不足? それとも熊が地震を予知して山から下りて来たとか?)……と、それはもう大変な1週間でした。

 週のはじめに、まずはカウラ事件の関係者であるSさんにお逢いすべく、日帰りで水戸方面に行って来ました。
 Sさんは、これまでに発表されたカウラ関係のいかなる書物の中でも紹介されていない、しかし当時のカウラ事情をよくご存知の、元陸軍の軍人さんです。
 今回、Sさんからは、これまで誰からもお聞きしたことのない
新事実を含む、捕虜時代の貴重なお話を伺うことができました。

水戸の先にある河原子海岸。こ
の近くでSさんにお逢いしました
 Sさんへのインタビューを終え、水戸から一旦東京に戻った私は、人心地つく間もなく、来日中のブータン王立美術学校の学長先生2名を連れて、富山県(富山市、高岡市、氷見市)と石川県(金沢市)へ。

「ブータンから次第に失われつつある伝統工芸の技を、是非とも
日本の職人さんから学びたい」

というお二人の意向を汲んで、今回は日本最大手の梵鐘メーカーや、漆器の工房、金箔の工房などを回って、日本文化の真髄を視察して参りました。
 同行者は、私も理事を務めている
日本ブータン芸術委員会の理事数名です。

 今回の視察中、圧巻は、日本最大のシェア(80%)を誇る梵鐘メーカー
老子製作所で見学させていただいた、重さ250トンの梵鐘の鋳造工程でした。
 「250トンの梵鐘」って一言で言いますけれど、実際には半端なサイズじゃないですよ。撞木(しゅもく=鐘を撞く棒のこと)の大きさだけでも、とんでもない大きさ。実際に撞いたら、どれほど大きな音が出るんでしょう。

 この鐘は
台湾のお寺から依頼されての受注生産とのことですが、老子製作所では、ほんの数ヶ月前にも500トンの梵鐘を造ったばかりだそうで、その迫力には、ただただ圧倒されるばかりでした。

世界最大の梵鐘メーカー老子製作所にて
(右より)早稲田大学の小杉拓也先生、ブー
タン王立タシアンテ美術学校のラム学長、
ブータン王立ティンプー美術学校のジグミ
学長、老子製作所の西川實さん
 老子製作所の西川さんから伺ったお話によれば、最近は梵鐘の音色を必ずしも好きではない、それどころか騒音と感じる日本人が増えているのだそうです

 受験生の子どもを持つ親が、
「寺の鐘がうるさくて勉強にならない」と裁判に訴えた事例もある由。
 このケースでは、「そんなことで
町の人と争いたくない」と考えた僧侶が、裁判の結果を待つまでもなく、みずから鐘撞きを自粛したそうですが、おそらく、僧侶のこの決定に落胆なさった檀家さんも多かったのではないでしょうか。

 第二次世界大戦中、日本の家庭にあった
ありとあらゆる金属が(武器弾薬を作るために)軍隊に供出させられた話はつとに有名ですが、その際、お寺にあった鐘もすべて供出させられて、日本中の寺という寺から、鐘の音はすっかり途絶えてしまいました。

 もちろん、戦後の復興と共に鐘の復興も進みましたが、
お寺に鐘がなかった時代に生まれ育った世代は、鐘の音に対する愛着や免疫がなく、むしろこれを騒音と感じる傾向が強いというのです。

 梵鐘の音色を、えも言われぬ
わび、さびと感じる人々(私もそのひとりです)には想像しにくいことですが、趣味や嗜好はそれこそ人それぞれですし、信仰の自由といった事柄なども考え合わせると、上記のような裁判はこれからもっと増えてゆくのかも知れませんね。

 ところで今回の旅行では、ブータンからのお客様に日本の建築物を堪能して頂くため、洋式のホテルではなく純和風の旅館だけを泊まり歩きました。
 そのなかには、
能舞台のある旅館もあったんですよ!
 さすがは
加賀百万石の城下町の貫禄。ブータン人よりも、むしろ私たち日本人のほうが大感激でした。
 
金沢で泊まった旅館「石屋」は、なんと能舞
台付き。毎月のように、宝生流の仕舞や能
狂言が楽しめるのだとか。羨ましい!




この部屋から庭越しに能舞台を拝見できます。
お能大好き人間の私には、たまらない魅力♪
 金沢では、友人のお父様が経営する金箔問屋さんにも立ち寄って、金箔の製造工程を細かく見せて頂いたのですが、視察のあとで、まったく予期していなかった素晴らしいプレゼントを頂いてしまいました。
 
金沢の金糸を京都の西陣で織らせたという、新品の帯です。

これが頂いた金の帯。ひとつひとつの織り目
は溜息が出るほど美しく、実際に使ってしま
うのが勿体なく感じるほど
 あまりにも立派な贈り物で、最初は辞退しようと思ったのですが、
「真美さんは、お着物をお召しになるのでしょう。締めてくださる人の手に渡れば、帯にとっても本望ですから」
というお言葉に甘え、ありがたく頂戴することにしました。
 早速、来月のお茶会には、手持ちの抹茶色の着物に合わせてこの帯を締めて行こうと思っています。


 その昔、遣唐使は、唐への貢物として平織りの絹、真綿、苧麻(まお)、木綿などを持参したそうですが、21世紀の現代にもこうして
客人に織物を贈る金沢の文化の豊かさに触れ、しみじみと古い町の良さを再確認した私なのでした。

 金沢から東京に戻った翌日は、休む間もなく
大阪へ。
 オーストラリアのテレビ局(SBS)で来年放送予定のドキュメンタリー番組(60分)の撮影のため、COJOプロダクションのジョンさん、プルさんと共に、カウラ捕虜収容所の元捕虜・高原希國さんを取材して参りました。

 今回の番組のテーマは、第二次世界大戦中の日本軍によるダーウィン攻撃です。

 ダーウィンはオーストラリアの北のはずれ、アラフラ海に面した町で、大戦中の
1942年2月19日に日本軍からの攻撃を受けました。この攻撃は、しばしば“第二の真珠湾”と称されるほどの奇襲攻撃だったようです。
 その際、オーストラリア軍はダーウィンの町を守るどころか、逆に
兵隊たちが一斉に逃走し、その結果、多くの市民が犠牲となったことが記録されています。
 そのためオーストラリアでは、「事件から60年以上経った今なお、この一件は国内で多くの物議を醸している」(ジョンさん談)のだとか。

 日本軍による攻撃の凄まじさそのものもさることながら、むしろそれ以上に大きいのは、「オーストラリア兵は
なぜ市民を見捨てて逃げたのか?」、「なぜ事前にきちんと敵(日本軍)の動向を把握し、対策を練ることが出来なかったのか?」といった疑問。
 オーストラリア人にとってダーウィンの事件は、みずからの資質を問う大きな反省材料としてクローズアップされることが多いようなのです。


 その頃、高原希國さんは、海軍第二期甲種飛行予科練習所(通称
予科連)出身の、バリバリの一等飛行兵曹でした。

 日本軍によるダーウィン攻撃の4日前(2月15日)、高原さんは九十七式飛行艇でダーウィン近くのティモール島海域を偵察に行き、そこへ飛来した
アメリカ軍のP40キティホークと遭遇。いきなり激しい銃撃戦になります。

 
敵と相撃ちになってアラフラ海上に墜落した高原さんとその仲間たちは、それから何日にもわたって海上を漂流。最初は8名いた飛行艇乗組員のうち、2人は墜落(着水)時のショックで死亡。もう1人も、墜落時の傷が原因でじきに亡くなりました。

 やがてメルヴィル島に流れ着いた高原さんら5人は、食べ物を求めて必死で隣のバサースト島まで泳ぎ渡りましたが、そこにもやはり食べ物はなく、さらに飲まず食わずで
何日も島内をさまよい歩き、最後はオーストラリア軍に捕らえられて捕虜になられたのです。

 その後、高原さんはオーストラリアのヘイ収容所を経て、カウラ捕虜収容所に収容され、やがて
世界最大の捕虜脱走事件であるカウラ事件の主人公のひとりになるわけです。

 今回のテレビ撮影では、飛行兵曹だった当時の高原さんが、戦っている時に何を思い、撃墜されて海に落ちてゆく瞬間に何を感じ、カウラで暴動を起こした時に何を考えていたのか、そのあたりの心境を赤裸々に語って頂きました。

撮影中のひとコマ(右より)高原希國さん、私、
COJOプロダクションのジョンさん




大阪城公園にて、高原さんと



ジョンさん(右端)、プルさん(左から2人目)と
一緒に記念撮影
 こうして大阪での仕事も無事に終え、今日は東京に戻って久々に子どもたちとのんびりしていたのですが、夕方になって、今度は大きな地震じゃありませんか。
 地震、台風、熊の被害と、このところ本当に物騒なことばかりが続きますねぇ。

 これだけ自然が荒れているのですから、自然の一部である人間の心が荒れているのも、道理かも知れません。
 こんな時でも、いいえ、こんな時だからこそ、物事に動じない
平常心を保ちながら、ニコニコ笑顔で過ごしましょうネ♪

 なお、次号「週刊マミ自身」の更新は、11月1日(月曜日)を予定しています。
 そろそろ新刊
『死との対話』の詳細発表(表紙の写真を含む)ができると思いますので、次回は特にお見逃しなく。

 
ではでは♪
★今週のブースケとパンダ★


ブースケの目だけピカ〜ッ! ロボット犬?

※前号までの写真はこちらからご覧頂けます。

事事如意
2004年 10月23日
山田 真美