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2017年5月19日号(第578号)
今週のテーマ:
カウラ事件犠牲者を偲ぶ会
 去る5月14日(母の日)、靖国会館において、私のライフワークの一つであるカウラ事件の犠牲者を偲ぶ会が有志らの手で営まれ、ご参集くださった66名の善男善女の前で2時間半にわたる講演をして参りました。

 事件のサバイバーで今尚お元気な村上輝夫さん(今年で97歳)がわざわざ鳥取から(しかも長距離夜行バスで!)参加してくださったのは驚異的なことでした。

カウラ事件サバイバーの村上輝夫さんと。
 今回、靖国会館を講演会場に選んだ最大の理由は、カウラ事件を生き残った元捕虜らを中心に編成されていた豪州カウラ会が、戦後しばしば靖国会館に集結して犠牲者の慰霊に務めていたという事例に倣ってのことです。

 「捕虜と靖国」という、これまで余り触れられることのなかった重いテーマにも今回は敢えて触れてみました。
 
写真提供:甲飛喇叭隊第十一分隊



当日配布した資料
  講演第一部は、カウラ事件をあまりご存じない方のために事件の概要をご説明。

 といっても型通りの堅苦しい説明ではもちろんなく、私が1993年のある日突然カウラ事件に足を踏み入れることとなった経緯(実話)から始めて、ひとりの女性(つまり私です)の目を通じて次第に事件の全貌をお伝えしてゆくという、一種のストーリー・テリングの手法を取らせていただきました。
 
ある日突然「まるで雷に打たれたように」カウラ事件に
足を踏み入れることになった、そのきっかけを話す私
写真提供:甲飛喇叭隊第十一分隊



写真提供:甲飛喇叭隊第十一分隊
 講演第一部と第二部の間のランチタイムには、当時の戦闘糧食を忠実に再現したラボール巻きを参加者全員でいただきました。

 ラボール巻きとは、零戦パイロットが操縦しながら片手で食したと言われる細巻きのことで、名前はラバウル(ニューギニアの首都)が訛ったもの。お弁当屋さんの江戸まといさんが当時の糧食を忠実に再現してくださいました。

 ちなみに江戸まといさんでは、戦艦大和が沈む前に乗員らが召し上がった最後の食事や、真珠湾攻撃の直前に戦闘員らが口にしたメニュー等、複数の戦闘糧食を研究・再現していらっしゃるそうです。

 こういった切り口からの戦争理解は、精神論ではない、生身の人間としての兵士の日々の営みを考えさせてくれるという意味で非常に面白いですね。

 ランチタイムにはこのほかにもオヤツとして老舗・熊岡菓子店の軍用堅パンが振る舞われ、「食」を通じて身体で戦時を体感することができました。

献杯の音頭を取る『ロスト・オフィサー』版元兼編集者の芝田暁さん(左)と
「偲ぶ会」を企画してくださった公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会
評議員で明治学院大学の後輩でもある及川昌彦さん(右)。
ワインはカウラ産の「サクラ・シラーズ」(ヴァイアンドカンパニー提供)。
写真提供:甲飛喇叭隊第十一分隊



ラボール巻き(左)、カウラワイン(右上)、軍隊式の堅パン(右下茶色い
正方形)、現代風にアレンジされた甘めの堅パン(表面が白っぽい円形)
写真提供:高橋繁喜さん
 またこの日は甲飛喇叭隊第十一分隊の皆さんが駆けつけてくださり、カウラ事件発生時に使用されたものと同型のラッパなどを使って突撃ラッパほか数曲を献奏してくださいました。

 事件発生当時、カウラ収容所には1,104人もの日本人下士官と兵が収容されていましたが、各ハット(兵舎)には時計がなかった(=団長・副団長らが集う事務所に一つだけ時計があった)ことから、起床から就寝まで、一日の行動はラッパ音によって知らされていたと言います。

 甲飛喇叭隊第十一分隊の皆さんが吹くラッパと同じ音色がカウラの収容所にも流れていたのだ。そう思うと、自分がそこにいたわけでもないのに、なぜか懐かしさがこみ上げて来ます。

(思えば私もずいぶん長いことカウラ事件の研究をしていますからね。最近ではあたかも自分がそこにいたような心持ちのすることが、たまにあるのです。実に奇妙な感覚です。)
 
当時の海軍・陸軍それぞれの様式でラッパの献奏
写真提供:甲飛喇叭隊第十一分隊
 食事後の講演第二部は、一気に掘り下げて事件の核心部分についてズバズバと斬った後、村上さんをインタビューさせていただきました。

 今回の講演では、従来は事件に関与していないと考えられていた(Dコンパウンドの)士官(将校)の事件関与に関するさまざまな状況証拠や、戦後長きにわたって事件のスポークスマン的な立ち位置を貫いた豪州カウラ会とは何だったのか等、これまでの講演会では(主として時間的な制約から)どうしても辿り着けなかった事件の核心にも明確に触れることが出来ました。

 このことが今回の大きな収穫であったと思います。
 
「カウラ事件」という呼称がいつ、どこで、
誰によって最初に提唱されたかを説明する私。
ここは事件の根幹に関わる重要ポイントです。
写真提供:佐野加奈さん



事件の生き証人でいらっしゃる村上輝夫さんをインタビュー。
軍隊での階級が低く収容所での日も浅かった村上さんは、
「心では暴動に反対だったのに(暴動の可否を決める投票では)
なぜか○(暴動賛成)と書いてしまいました」と証言。
 カウラ事件は私が24年前から取り組み、今日まで文字どおり格闘してきたテーマですが、気がつけば、当時のことを知る関係者の多くは既に鬼籍に入ってしまわれました。

 多くの人々の努力にも関わらず日本ではいまだに知名度の低いカウラ事件。
 私の目標は、いつかカウラ事件を教科書に載せることです。

 その布石として、まずは3年前に完成させた博士論文を一般書の形に変え、日本語と英語で出版させなければいけません。きっと、これは私の使命なのでしょう。

 まだまだ先は長い。最後まで頑張りますよ!
 
講演会を報じる信濃毎日新聞(社会面)
 今回の集まりを企画してくださった及川昌彦さまはじめ、有志の皆さま、参加者の皆さまに、この場をお借りいたしまして深く感謝申し上げます。

 また、「うちの町/会社/学校でも、カウラ事件の講演を聞きたい!」というご要望がありましたら、どうぞお気軽に宛てにメールで直接お問い合わせください。

 もっと深くカウラ事件を知ってほしい
 一人でも多くの皆さまにこの想いが届くことを切に願っています。
 ▼・ェ・▼今週のクースケ∪・ω・∪ 


トリミングした後のクースケは
小さくて赤ちゃんのよう。

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2017年5月19日
山田 真美
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