2007年9月23日号(第276号)
今週のテーマ:六十日間インド一周(その壱) |
●9月2日(日)
今日からの2ヶ月間、インド国立文学アカデミー(正式名称Sahitya Akademi、以下「アカデミー」と略)のフェローとしてインドを訪問する。
正午発のエアインディア307便で成田を発ち、インド時刻の16:55にデリー到着。
アカデミーが用意してくれた車に乗って走りだした途端、雷を伴う大雨が降り出した。
今夜からの宿となるインディア・インターナショナル・センター(IIC)にチェックイン。ここはインド版の学士院のようなところ。宿泊客の大半は学者さんのようだ。
テレビをつけたところ、いきなり知り合いのマジシャンが登場し、驚かされる。
実は急な用事があって彼に電話をかけようと思った矢先の出来事だったので、まさに吃驚仰天である。 |
ニューデリー空港に着くなり雨。こんな日には、扉が
ないオートリキシャーは大変そうだ
宿に入ってTVをつけた瞬間、いきなり友達のマジシャン
(『マンゴーの木』に登場するムトゥカド氏)が現れた! |
●9月3日(日)
ホテル暮らしは何かと不便なので、早々に友人の家に引っ越しをする。
そのあと、マラヤラム語の先生だった故・イダマルクさんの息子さんに当たるサナルと再会。
サナルは3つの出版社を経営しておられ、かつて私がインドで出版したことのある“Wheel of Destiny”をご自身の出版社MUDRA BOOKSからぜひとも再出版したいとのこと。
トントン拍子に話はまとまり、私がインドを去る直前の10月末には本が完成する運びになった。
まるでジェットコースターのような事の展開の速さである。
……という具合で、インドに到着してから何かと驚かされることが多い。やはりここは私にとって摩訶不思議の国だ。 |
今回私を招聘してくださったインド国立文学アカデミーの
秘書官であるクリシュナ・ムルティ氏と、氏の執務室にて
夜はサナル夫妻と南インド料理を堪能 |
●9月4日(日)
再びサナルと出版の打ち合わせ。今回、本のカバーデザインは娘(シドニー大学美術学部在学中)に一任することにした。
昨日から物凄いスピードで物事が進んでいて、まさにジェットコースター状態。今回インドに来たことで、今まで止まっていた歯車が一気に動きだしたような気がする。 |
昨日から居候させていただいているモディさんの家
今日のランチはタリ(主食とおかず数品がセットになった定食)。パパイヤも毎日欠かさない |
●9月5日(日)
朝はアカデミーで明日からの旅の打ち合わせ。
昼は昔インドに住んでいた頃からの友人のお宅に招かれ、ランチを御馳走になりながらデリーの最新情報を聞かせていただく。
そして夕方からは、サナル夫妻とブックフェア(本の見本市)へ行ったあと、出版社(MUDRA BOOKS)で出版契約書にサイン。 |
10数年来の友人であるラメーシュ・ワドワさん(左)
宅にて、三井化学にお勤めの清(せい)さんと
ワドワさんの奥様が作ってくださったランチ |
●9月6日(日)
今日から2泊3日でカジュラホに行って来る。ジェットエア便で10:40デリー出発、13:00カジュラホ到着。
カジュラホと言えば、例のエロティックでアクロバティックなミトナ像(カーマ・スートラ風の男女交歓像)で知られているものの、実はすべての彫刻のうちミトナ像が占める割合はわずか5%に過ぎない。その5%だけが、繰り返し繰り返しメディアを通じて紹介されているのだ。
……人間は本当にエロスが大好きである。
サイクルリキシャー(人力車の自転車バージョン)を借り切り、あちこち回ってもらう。 |
カジュラホで泊まったホテルの庭
(左)カジュラホには見事な彫刻が施された寺院が点在している。現在インドに27ある世界遺産の一つだ
(右)村の子ども達のために建てられた学校を訪問。数学の授業を見学させていただく |
●9月7日(日)
政府観光局に立ち寄り、カジュラホの歴史などを詳しく伺う。
昨日に引き続き寺院の見学をしたあと、午後から少し遠出をし、ケン・ガリヤル野生保護区にあるラネー滝を見学に行く。 |
再びあちこちの寺院を見学。彫刻の数は
夥しく、じっくり見ているとかなり疲れる
(左)ラネー滝(のごく一部)。落差30m。本物は写真で見るより大迫力
(右)帰り道で逢った素朴な人々。しかし赤ちゃんを頭に乗せるのは危険では? |
●9月8日(日)
昨日までにカジュラホの主な遺跡はすべて見終えた。
今日はもう一度、気になった遺跡だけを丁寧に見て回る。
2000年に新しく発掘された遺跡(残念ながら完全な形からは程遠い“残骸”しか残っていなかったとのこと)も見学。ここまで来る観光客は少ないようで、この一帯だけが妙に閑散としていた。
ジェットエア便にて13:30カジュラホ出発、16:00デリー到着。 |
2000年に発掘された遺跡。これから大規模な修復を
試みるとのこと。遺跡はこれからも見つかる可能性が
あり、発掘調査はまだまだ続くようだ
ここがカジュラホ空港。周囲に都市はなく、まさに陸の
孤島といった趣 |
●9月9日(日)
今日から再びデリー。アカデミーのラオさん(私の担当をしてくださっているプログラム・オフィサー)のご自宅でランチをご馳走になる。
夕方からは「ルネッサンス・フォーラム」(ケララ州出身の作家・画家の集まり)に招かれ、『マラヤラム文化と日本文化の比較研究』のテーマで1時間ほど講演。英語とマラヤラム語のチャンポンで話したためもあって、想像以上に受けていた。 |
ラオさんのご自宅で、奥さん、娘さんたちと記念撮影
ラオさんのお宅でご馳走になったベジタリアン・タリ
「ルネッサンス・フォーラム」での講演風景。向って
右側がサナル・イダマルクさん |
●9月10日(日)
朝はアカデミーでミーティング。
昼過ぎに銀行のATMへ行く。しかし最初に行ったATMは「今日は現金を機械に入れ忘れた」というアンビリーバボーな理由で使えず、次に行ったところはフツーに機械が故障中。3ヶ所目にしてようやく現金を下ろすことができた。
……しかしまあ3ヶ所目でお金を下ろせたのだから、少しはマシなほうなのかも知れない。
インドではこんなことが日常茶飯事だから、生きてゆくためには忍耐づよくならざるを得ないのだ(しかも、数年前と比べれば各種インフラはかなり整備されてきたようだし)。
夜は日本大使公邸で催された大使の離任パーティーに出席。 |
日本大使公邸で、10数年来の友人であるダゴー・ツェ
リン駐印ブータン大使御夫妻と
旧知のヴィバウ・ウパディアエさん(インドセンター代
表)と。ちなみにヴィバウさんは東大大学院卒の秀才
で、驚くほど日本語に堪能でいらっしゃる |
●9月11日(日)
12時よりデリー大学で講演。テーマは『日本におけるサラスヴァティ(弁才天)信仰』。
聴講生の多くは同大学の東アジア研究所(アカデミックなレベルは非常に高い)に学ぶ院生で、ちらほら学部生の姿もあった。
当初は「ぜひ日本語で講義して欲しい」というお話だったのだが、中国語専攻の生徒(当然、日本語は全くできない)が2名参加したため、急遽英語での講義に切り替える。お蔭さまで評判は良く、「次は教授たちを対象とした講義をぜひ」との要請があった。
夕方、MUDRA BOOKSで出版の打ち合わせ。
夜はケララ式のアーユルヴェーダ治療院で1時間半ほど全身オイルマッサージを受ける。……この世の極楽。 |
デリー大学の院生を対象に「日本におけるサラスヴァ
ティ(弁才天)信仰」をレクチャー(使用言語は英語)
本日のランチ(インド式の仕出し弁当) |
●9月12日(日)
ジェットエア便にて07:10デリー出発、約60分でラダックの首都レーに到着。
今日からの4日間を、インド最北端のラダックで過ごす予定。
ラダックに来るのはこれで何度目だろう。ここは何故かとても懐かしい場所だ。インド有数のチベット仏教の聖地でもある。
飛行機から降りた瞬間から……寒い! デリーから到着した者には、ヒマラヤの寒さが身にしみる。
アカデミーが事前に予約してくれておいた宿(ホテル・シャンバラ)にチェックイン。3,500メートルの高度に順応するため、今日は何もせずに大量の水を飲みながらゴロゴロ過ごす。
(高所に着いたら、初日は水を飲みつつ徹底的に休むことが、高山病予防の基本的な方法なので)
日が暮れたあとは厚手のコートを着込み、それでも足りずにホッカイロを腰に張ってなんとか生き延びる(笑)。 |
デリーからレーに向かう機内から見たヒマラヤの風景
(左)ホテル・シャンバラの内装 (右)ホテルオーナーのピントさんと |
●9月13日(日)
たまたま同じホテルに泊まっていた3人と友達になる。
歯科医のマヤ(ドイツ人)、小児科医のクムクム(インド系アメリカ人)、そして会社経営者のジャンフランコ(イタリア人)。全員が“インド一人旅”の真最中だ。
あっという間に意気投合した我々はジープをチャーターし(割り勘)、いくつかの寺院をめぐる日帰り旅行に出発。
荘厳な弥勒菩薩像でつとに有名なティクセ寺、グル・パドマサンバヴァ(チベット版の弘法大師空海のような高僧)を祀ったヘミス寺、インダス河、中央仏教研究所などを訪問する。 |
ティクセ寺の入口にて(左から)歯科医
のマヤ、会社経営者のジャンフランコ、
私、小児科医のクムクム
マイトレヤ(弥勒菩薩)像で知られるティクセ寺の外観。
空気が希薄なため、この丘を登るだけでも息が切れる
朝7時から行われる読経のために集まって来た僧侶の
卵たち。「息子が3人いたら次男は寺に出す」のは、ヒマ
ラヤ仏教徒の間に伝わる古い習慣 |
●9月14日(日)
ホテル・シャンバラをチェックアウトし、ホテル・カングラチェンに移動した。
カングラチェンは、拙著『夜明けの晩に』の中で満奈、鳥居さん、マーシーが逗留したという設定の宿だ。オーナーのジグメットさんとは、10数年前から家族づきあいをしていただいている。
今日はほぼ1日ホテルに篭り、中央仏教研究所から昨日借りてきた古書・稀書の類を読んで過ごす(明日には返却しなくてはならないので)。これらの資料は高野山大学の修論を書くために必須だ。
夕方、不注意からカメラを床に落としてしまった。まったく作動しなくなったカメラを前に、成す術もない。
すぐに修理屋さんを探そうとするも、誰に聞いても「カメラの修理店なんてラダックには存在しない。デリーでしか直せないだろう」という。
諦めずに街を歩き回ったところ、ラダックでただ一人(たぶん)の精密機械修理工を探し出すことに成功。シヴァという名の若い男性(自称Mobile Doctor)で、携帯でもカメラでもたちどころに解体し直してしまう凄腕の持ち主。
彼のお蔭で私のカメラも無事、元通りになった。やれやれ……(安堵)。 |
優しい雰囲気のホテル・カングラチェンの室内
ホテルの庭。ここは絶好の読書スポットで、しかもリンゴ
食べ放題なのがポイント高し(笑) |
●9月15日(日)
ラダックに到着した日は寒さに震えていた私が、今は「暑い暑い」と言っている。人間の順応性とは、まったく大したものだ。
今日はエコロジー・センター(ラダックの環境問題、特にエネルギー問題を扱うNGO)とラダック女性連盟(地域女性の地位向上を目指し活動している団体)を取材。
そのあとは小高い丘の上にあるレー宮殿までプチ登山をしたり、中央仏教研究所へ本を返しに行ったり。
夜はホテルオーナー主催の飲み会。たまたま同じホテルに宿泊中のフランス人女性(学校経営者)とフィリピン女性(公認会計士)も同席し、4人でしみじみ人生を語り合った。
大体において、わざわざ好き好んで一人でヒマラヤまでやって来るような人はみんな変わっている。
人生における真実について日頃から考えている人か、そうでなければ登山家だ(笑)。
それにしても、ラダックに来ると何故か無性にホッとする。たとえて言えば、赤ちゃんの頃に戻ってゆりかごに揺られているような―。ヒマラヤは人類のゆりかごなのだ、きっと。 |
(左)本日のランチはトゥクパ(チベット風うどん) (右)イスラム教徒のお兄さん達が
伝統的な窯でパンを焼いていたので焼きたてを食べてみた。1枚5ルピー(約15円)也
カングラチェンのオーナーで10年来の友人でもあるジグ
メットと、インド国産ビール(Kingfisher)で乾杯 |
●9月16日(日)
ジェットエアウェイズ便にて7:35レー出発、8:50デリー到着。
そのまま空港で3時間待ったあと、13:00デリー発のインディアン・エアラインズ便に乗り継いで、14:55ムンバイ到着。
ダダル駅のすぐそばにあるホテルにチェックイン。ホテルで一休みしたあと、夕方からは古い友達であるブンガラ家の人々と会員制のレストランで会食。
ブンガラ家の長女パールは、現在は旅客機のパイロットになるべく勉強中の大学生だが、かつては国内外の様々なコンペで優勝した経験もあるマジシャン・ガール。2000年には日本で文化交流のためのマジックショーをしてもらったこともある(当時のステージネームは魔法少女パール)。
次女のジニアも、あちらこちらの大会で優勝している小学生マジシャンで、彼女には近々日本でマジックを披露してもらう予定。今日はその打ち合わせも兼ねての夕食というわけだ。
昨日から始まったガナパティ・チャトゥルティー(象の顔をしたガネーシュという神様のお祭り)に浮かれる人々で、ムンバイの道路は大渋滞。そのなかをガネーシュの像を担いだ群衆が練り歩いてゆく光景は圧巻だった。
※ガネーシュは富を司る神様で、シヴァとパールヴァティの息子。首から上だけ象。別名ガナパティ。 |
飛行機を乗り継ぐため、デリー空港で3時間待ち。これ
はロビーの様子。結構、普通にキレイでしょ?
(左から)カイザード、私、パール、右下がジニア。
それにしても、私の日に焼け方は尋常ではない。
インド人もビックリ |
●9月17日(月)
今日は朝から軽くムンバイ市内観光。
マハトマ・ガンジーゆかりのマニ・バワンへ行ってみる。ここはガンジーがムンバイ(当時の呼び名はボンベイ)を訪れるたびに逗留したという家で、今では博物館になっているのだ。
博物館の最上階はドール・ミュージアムで、精巧に作られた20センチほどの人形によってガンジーの一生が表現されている。
夕方、ムンバイ在住の作家と詩人を対象に、1時間半のミニ講演会を開催(アカデミーにて)。
作家と詩人だけあって、皆さん興味の対象が堅気(かたぎ)の人とは一味も二味も違う。日本人の自殺に異様なまでの関心が集まったのはさすが(苦笑)。
ハラキリについての質問が数多く出たので、武士の作法と現代人の自殺の違いについて詳しく説明する。 |
モ〜、モ〜。街中に置かれた牛のオブジェ。姉妹品に
象とライオンのシリーズもあったりする
マニ・バワン内にあるミニチュア人形館。これはガンジー
が暗殺された場面。胸から血を流して倒れかかっている
白い服の人物がマハトマ・ガンジー
ムンバイ在住の作家・詩人の皆さんと(アカデミーにて) |
●9月18日(火)
今をときめくインド工科大学ボンベイ校(IIT Bombay)を訪問。
ここは、定員2,000人に対して毎年なんと200,000人が受験する(つまり倍率100倍)という超難関校だ。
ここで、またしても吃驚仰天するような出来事があったのだが―そしてそれは私の人生を変えてしまう可能性のある出来事なのだが―詳細はいつかお話し出来ると思う。今はまだ秘密にさせておいて欲しい。
実は今回、日本を出発する直前に『ハケンの品格』などで知られる人気脚本家の中園ミホさんから「ぜひお会いしたい」というご連絡をいただき、都内某所でお目にかかって来た。
中園さんは非常にユニークな経歴の持ち主で、脚本家になられる前はナント占い師(!)だったのだそうだ。
その中園さんがおっしゃるには、
「今年は真美さんにとって大変な年になります」
「12年後、真美さんは多くの民衆を従えて指導者的な立場に立っていることでしょう。おそらく政治ではないかと思います」
「その布石となる出来事が、来年12月までには決定的になります」
「今年の10月末までに、今後の方向を決定するような出来事が起こることでしょう」
とのことだった。
……このうちの最後の預言が、もしかしたら今日のインド工科大学での出来事だったのかも?
夜、サリーを買いに行く。思えば、今月2日にインドに到着してから、これが初めての買物らしい買い物だ。 |
IITのキャンパスを案内してくれたアンナ
プルナさん(博士課程の学生さん)と
この店でサリーを購入。品数豊富で現代的な雰囲気 |
●9月19日(水)
歴史あるボンベイ・アジア協会(Asiatic Society, Bombay)にて講演。聴講者はほとんどがインド学、神話学、仏教学などの学者さんだ。幸いなことに講演は好評であった。
終了後、南インドの代表的な英字新聞であるザ・ヒンドゥーより取材を受ける。
夕方、ガナパティ・チャトゥルティ祭りを見に行く。夜は再びブンガラ家の人々と会食。 |
ボンベイ・アジア協会の皆さんと記念撮影。右から2人
目がザ・ヒンドゥーの記者さんで、それ以外は学者さん
ガナパティ・チャトゥルティ祭りを祝って街角に祭られた
ガネーシュ神の像 |
●9月20日(木)
インディアン・エアラインズ便で15:55ムンバイ出発。
しかし、目的地の天候が悪く(強風と雷雨)、飛び立ったは良いがなかなか着陸できず1時間近くも上空を旋回したのち、ようやくオーランガバードに到着。
プレジデント・パーク・ホテルにチェックイン。ムンバイでは一度も見かけなかった日本人を、ホテルに入った瞬間に2人も発見してしまった。
これがどのような意味を持つかと言えば、ムンバイ滞在中の私が日本人旅行者が来るような観光地には一切近づかなかったということであり、同時に、ここオーランガバードは明らかな観光地だということである(苦笑)。
ちなみに私自身がオーランガバードを訪れるのは、実に18年ぶり。 |
悪天候のため1時間ほど上空を旋回した後、ようやく
オーランガバード空港に着陸
ホテルにはなかなか立派なプールが(なのに水着を
持って来なかった私は、ハッキリ言って負け組) |
●9月21日(金)
バスで1日観光ツァー。エローラ石窟(世界遺産)とその周辺の遺跡を見て回る。
ここは仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の僧侶たちが、長い歳月をかけてハンマーで石の山を叩き、作り上げた巨大な寺院・僧院群だ。
巨大な石の山を彫って寺院群を作ろうという大胆不敵な発想にまず驚嘆させられるが、それと同時に、数百年をかけて遂にそれをやり遂げてしまった僧侶たちの情熱には、まさに鬼気迫るものを感じる。
しかし、そうやって作られた寺院に佇む夥しい数の仏像と神像の多くは、偶像崇拝を許さぬイスラム教徒たちが片端から破壊してしまっているのだ(多くの像の顔や四肢、特に鼻の部分が叩き壊されている)。
破壊した者も、みずからの信じる教えに従ったのであろう。信仰の力とは誠に恐ろしいものである。 |
(左)エローラの第16窟。マハーバーラタやラーマーヤナなどの大叙事詩をモチーフにし
た彫刻が数多く彫られている。右の象も鼻が叩き壊されている (右)同じバスに乗り合
わせて仲良くなったチョウドゥリー御夫妻と、オーガンガバード郊外のデーヴァギリにて |
●9月22日(土)
今日は遠出をし(オーランガバードから約107km)、壁画で有名なアジャンタ石窟(世界遺産)へ。
ここは紀元前2世紀頃から数百年をかけて作られた仏教石窟で、蹄鉄のようにU字型にカーブした地形に沿って30の石窟(すべて仏教の寺院と僧院)が並んでいる。
仏教徒なら生きているあいだに一度は訪ねておきたい聖地の一つと言って良いかも知れない。
それにしても驚くべきは、これほどまでに巨大な石窟が、1819年に英国の陸軍将校ジョン・スミスが狩りの途中で偶然“発見”するまで1,000年以上にわたって忘れ去られていたという事実のほうである。
「つわものどもが夢の跡」と言うが……。今から1,000年後の地球はどうなっていることだろう、と、ふと思った。
1日かけて石窟群を見て回ったあと、22:55オーランガバード発の寝台列車でハイデラバードに向かう。
通路を隔てて反対側の席に座った見るからに偉そうなオジさま(地方の政治家らしい)から、マンゴーチャツネ入りチャパティーとチャイを奢ってもらった。 |
蹄鉄型にカーブした崖に沿って30に及ぶ石窟が彫られ
ている。石山を彫刻して寺院を作ろうという発想が凄い
石窟の中にはひんやりとした霊気が漂い、実に幻想的だ |
●9月23日(日)
朝9:30頃、終着駅のシカンダラーバードに到着。
列車のチケットを用意してくれたインド国立文学アカデミーからは「ハイデラーバードが終点」と聞いていたのだが、実際には列車はハイデラーバードまで行かず、その数キロ手前のシカンダラーバード駅が終着駅なのだった。
ハイデラーバードとシカンダラーバードは隣り合っており、俗に双子都市などと呼ばれている。ここはデカン高原の真上に位置し、かつては上質のダイヤモンド産地として名を馳せたようだ。
ハイデラーバードに関して言えば人口の50%がイスラム教徒で、ヒンドゥー教が優勢のインドには珍しくイスラム色の強い街である(今年8月25日に、遊園地など一般人が集まる数ヶ所で同時多発テロがあったことでも記憶に新しいだろう)。
「ハイデラバードに行ったら名物のビリヤニ(焼き飯の一種)を食べなさい」と複数の人から言われていたので、何はともあれ食べてみた。
……ビミョーな味だ。焼き飯自体は味が薄く、その上にダル(大豆のピリ辛スープ)や香辛料入りのダヒ(ヨーグルト)をかけて食べるのがご当地流らしいのだが……うーむ。
それにしてもハイデラーバードはさすがにハイテク都市だ。チェックインした三ツ星ホテルには、薄型液晶テレビ(壁掛けタイプ)もWI-FI(プリペイドカードを購入して接続)も完備しているではないか。
というわけでインド入りしてから22日目にしてようやく、自分のラップトップコンピューターから直接インターネットに繋ぐことが出来た(感涙)。 |
寝台列車アジャンタ・エクスプレス。タダ乗りと強盗防止
のため、例によって窓には鉄格子が嵌っている
ハイデラーバード名物の「ビリヤニ」。右上に見えている
茶色いスープがダル、白いほうがダヒ(ヨーグルト) |
※この続きはこちらからお読みいただけます。To be continued. |
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪
ブースケの代わりに、道端を歩いていたヤクの子ども
の写真を載せておきます(ラダックのレーにて撮影)
※前号までの写真はこちらからご覧ください |
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