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2013年12月2日号(第496号
今週のテーマ:
明治学院創立150周年記念野球(対・東大)
★ 仏教エッセイ ★
『仏教一年生』は、『仏教二年生』と改題して近々新スタートの予定です。暫くお待ちくださいませ。
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 去る11月24日、「明治学院創立150周年記念野球」と銘打たれた特別な試合が行なわれました。場所は神宮球場。対戦相手は東京大学です。
 
記念試合のチラシ(左)とパンフレット(右)。イエローは明学のテーマカラーです♪
 最初に、今回の試合が行なわれるまでの経緯について、少しだけ説明しておきます。

 今日では大学野球といえば早慶戦(慶應の人に言わせると「慶早戦」)を思い浮かべる方が多いと思います。しかし「野球部の歴史」という点では、実は明治学院と東大のほうが早慶よりも古いのです。大学野球の黎明期を担った双璧、それが明治学院と東大の野球部だったんですね。

 両校はまた、今から123年前の1890年(明治23年)5月に行なわれた試合に於いて、のちに「インブリー事件」の名で知られることとなる日本野球史上初の乱闘事件を起こした因縁めいた間柄でもあります。

 そうした諸々の経緯を考え合わせれば、創立150周年記念試合に当たって明治学院が最も相応しい対戦相手として東大を選んだことは、当然と言えば当然と言えるかも知れません。

神宮球場の入り口。明治学院は一塁側です(今日はお祝いの試合なので入場無料)


 私が球場に着いたのは、既に主催者挨拶が終わり間もなく始球式というタイミングでした。

 一塁側の応援席には友人(明治学院の同窓生)の顔がちらほら見えたので、彼らと勝利祈願のハイタッチをしたあと、既に到着していた大川さんと合流。学ランを着た応援団の真後ろの席に陣取りました。

 大川さんは明学にも東大にも関係のない他大学の卒業生ですが、野球のルールや歴史に滅法詳しい友達です。今日の試合結果について万が一打ち上げ飲み会の席で揉めるようなことがあってはいけませんので、公正な第三者レフリーとして(?)御足労いただいたのでした(笑)。

 その後、浅田さん(明治学院から国立音大の大学院という珍しい進路を進まれた方)もわれわれの隣に合流。

 打ち上げ飲み会に参加予定の村田さんは、東大卒なので三塁側へ。
 「野球はバックネット裏で見るに限る」主義の吉光さん(東大卒)は、迷わずバックネット裏へGO!(笑)

 ……というわけで全員が然るべきポジションで応援準備完了です!

気合を入れて応援してきました!(※写真は試合終了後、観客が帰って
から撮影したものですので、妙に閑散としていますが) 
  明治学院の学院長による始球式で始まった試合は、1回裏、明治学院が大量得点のチャンスがありながら三者残塁に終わるという、やや心臓に悪い展開で始まりました。

 2回表には東大がソロ・ホームランで1点先取。

 その後も明治学院は、たびたび出塁するものの得点に結びつけることが出来ません。
 4回裏にようやく1点返してスコアは1対1に。

 その後、5分間のインターミッションが入り、インブリー事件のあらましが大スクリーンで紹介されました。

試合の合間に上映された約5分間のショートフィルムより。明治時代の両校の野球部員の姿を
収めた貴重な写真が紹介されました。第一高等中学校とは「一高」(東京大学の前身)のことです



1890年(明治23年)5月に一高グラウンドで行なわれた試合の6回裏、明学が6対0で一高(東大)を
大きくリードしていた時に、日本野球史上初の乱闘事件となる「インブリー事件」は起こりました



遅れて来た明治学院の宣教師インブリー氏が、正門が閉じていたためやむを得ず垣根を乗り越え
球場に入ったところ、激高した一高側がインブリー氏に襲いかかって重傷を負わせ、大事件に発展



日本のキリスト教界のリーダーで著書も多かったインブリー氏が襲われたというニュースは、
瞬く間に国内外に報道され、あわや国際問題という重大な危機に……



事件の背景には、当時の明治政府が押し進めていた「欧化政策」に対する反発があったようです
(写真は当時インブリー氏が暮らした寄宿舎。現在も「インブリー館」として保存されています)



日本外務省と一高校長の奔走、そして何よりもインブリー氏みずからが駐日アメリカ大使を説得した
ことにより、事件は国際問題となることなく穏便に解決。以上が事件の一部始終です……
 123年前に起こったインブリー事件が当時の写真と共に紹介されると、神宮球場が一瞬明治時代にタイムスリップしたように感じられました♪

 そうでなくても今回は両チーム共、記念試合のために作った明治時代の復刻版ユニフォームを着てプレイしていたのです。そのせいもあって妙にレトロな雰囲気が漂う記念試合となりました。

 なお、インブリー事件を契機に一高は猛練習をして遂に大学野球界をリードする存在となった由。

 またインブリー氏をはじめとする宣教師らが暮らした寄宿舎は、現在は「インブリー館」の名称で白金キャンパス(東京都港区)に保存されています(国指定重要文化財)。機会がありましたら一度ご覧になってみてください。

明治時代のユニフォームを着た明学のピッチャー。ハンチング帽がnice♪



こちらは試合終了後の集合写真撮影の様子。帽子が変わっただけで雰囲気が変わるものですね!
 創立150周年記念野球のほうは、その後、明治学院が7回裏に2点加えて3対1で明治学院の勝利となりました。

 123年の歳月を一足飛びにした感のある今回の試合を観戦できたことは、自分が生まれる遥か昔の明治学院に思いを馳せるのみならず、明治時代の日本男児について考えてみるという意味でも、実に有意義な体験でした。

 そう言えば日本で初めてキャッチャー・ミットを使用したのは明治学院野球部主将の白洲長平だったという噂を、昔どこかで聞いたことがあるのですが、今回配布された資料(「明治学院150周年記念試合:神宮の杜で歴史ある校歌を唄おう」)によれば、白洲長平はキャッチャーミットをアメリカあたりから買ってきたわけではなく、馬の毛と鹿の皮を使って手作りしたようですね。

 さらに長平は撃剣(剣道に対する当時の呼び名)のを利用し、目の高さにある面金(条鉄)を1本抜くことによってキャッチャー・マスクとして代用した模様。

 欲しい物があれば工夫をこらして何でも手作りしてしまうところに、当時の日本人の底力を感じます。彼らからは、123年後の私達が学ぶべきところが大いにありそうですね♪
 
明治学院創立150周年記念野球(東大vs.明治学院)のスコア



試合終了後の打ち上げにて、左から:村田さん(東大卒)、吉光さん(東大卒)、浅田さん(明学卒)、
私(明学卒)、大川さん(東大でも明学でもない大学卒)@スペイン料理店「Costa del Sol」
 さて、ここで重大な発見(?)を一つお伝えしておきます。

 明治学院と一高が対戦した123年前(1890[明治23]年)の日本には、野球という言葉がまだありませんでした。

 何故ならば、ベースボールを「野球」と訳したのは一高生の中馬庚(ちゅうまん・かなえ)で、それは1894(明治27)年のことだそうですから。従って123年前の試合は、「野球試合」ではなく、「ベースボール試合」と呼ばれたはず。

 あれがベースボールの試合だったと知ってから改めて当時のユニフォームを見ると、例のハンチング帽がドンピシャリお似合いに思われてくるから不思議です。

 ちなみに123年前のインブリー事件に関しては、当日居合わせた野球好きな正岡子規が日記に書き残しており、当時をしのぶ貴重な史料になっているとのこと。そして子規の日記のなかでも、当然のことながら「ベースボール」という言葉が使われているようです。

 というわけで、調べ始めると大学野球も実に奥が深いわけですが、きりがなさそうなので今日はここまでにしておきましょう。

 ここで、改めまして、東京大学の皆さま。

 このたびは明治学院の150周年を一緒に祝ってくださり、本当にありがとうございました。
 お蔭さまで、とても気持ちのよい試合が出来ました。

 もしもご縁がありましたら創立200周年の際にもお相手をしていただけますよう、50年も先の話で誠に恐縮ですが(笑)、卒業生の一人として、また教員の一人として、衷心よりお願い申し上げる次第でございます♪

 フレー! フレー! 東大!
 フレー! フレー! 明学!
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


ニワトリの世話がすっかり身についたブースケ氏
(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2013年12月2日
山田 真美
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