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2014年12月8日号(第526号)
今週のテーマ:
スター家の三姉妹の来日
 本題に入る前に、突然ですが先日エチオピアから仕事の依頼が飛び込んでまいりました。

 エチオピアですよ、エチオピア! 私はこれまでアフリカといえば南アフリカ共和国しか行ったことがなく(それもケープタウンのみ)、アフリカ大陸は自分にとって縁の薄い地域なのかなと思っておりました。

 エチオピアについて知っていたのは、アフリカ随一の古い歴史を誇り、唯一植民地化されずに済んだ国であること(但し1930年代にイタリアが武力介入した時期あり)、首都アジスアベバが標高2,000メートル超の高地に位置していること、それからマラソンのアベベ氏のお名前ぐらいで、あとは何一つ知りませんでした。

 それだけに、エチオピアから連絡がきたこと自体が青天の霹靂
 今後、このお話がどう進展してゆくのかは未知数ですが……なにやら面白いことになってきました。

 これとは別にインド関係の本の出版についても編集者さんとの間で話が進んでおりまして、ここへ来て色々なことが動き始めた感じです。

編集者さんとインド本の打ち合わせ(12月4日@御茶ノ水の「山の上ホテル」喫茶部にて)
 さて、そんな折、先週はオーストラリアのカウラからスター家の三姉妹が来日なさり、長野県北部の野沢旅館に数日間逗留なさいました。 

 スター家の三姉妹と言えば、長女のメアリーさん、次女のデイルさん、三女のアリソンさんのことで、私とはかれこれ20年来の家族付き合いになります。これまで何度か「週マ」にご登場いただいていますので、お顔を覚えておられる方もいらっしゃるかも知れません。

 彼女達のお母さまに当たる故マリオン・スター(Marion Starr)さんは、カウラ事件の研究に一生を捧げた素晴らしい女性でした。マリオンさんに関しては、私も『生きて虜囚の辱めを受けず』(320ページ)と『ロスト・オフィサー』(59~60ぺージ)に少しだけ書いておりますので、本をお持ちの方はぜひチェックしてみてください。

 カウラ生まれ・カウラ育ちのマリオンさんは、草の根レベルで日豪親善に尽力した女性で、カウラを訪問した日本人の多くがそれはそれは彼女のお世話になったものです。残念なことに2003年に60歳で急逝してしまわれましたが、今は三人の娘さん達がしっかりとお母さまの遺志を継いでいらっしゃいます。

 とりわけ三女のアリソンさん(二児の母で本業は建築家)は、カウラ事件をテーマに研究をなさっており、現在はシドニー大学大学院で博士論文を書いていらっしゃいます。アリソンさんと私には通じる部分が多く、なんとなく「血の通わない姉妹」のような感覚で親しくさせていただいているのでした。

 そんな三姉妹の達ての希望で、先週は直江津捕虜収容所跡地「平和記念公園・展示館」(新潟県上越市)へ、私の運転でお連れしてまいりました。

12月5日、直江津平和記念公園にてスター家の三姉妹と。(左から)メアリーさん、デイルさん、
アリソンさん、私(記念樹は今年4月にカウラ市長ビル・ウェスト氏によって植樹されたもの)
 現在「平和記念公園・展示館」が設けられているこの場所は、第二次大戦期の1942年(昭和17年)から45年(昭和20年)にかけて東京俘虜収容所第四分所(いわゆる直江津捕虜収容所)が置かれたところです。そこには米・豪・英・蘭人の捕虜が収容され、全部で約300人いたオーストラリア兵捕虜のうちの実に60人が疾病・飢え・寒さによって死亡したことでも知られます。

 直江津捕虜収容所事件として知られるこの事件についてはWikipediaのページに概要が記されていますし、また上坂冬子さんの著書『貝になった男―直江津捕虜収容所事件』には事件詳細が記されていますので、関心のある方はぜひともご覧になってください。

 上越日豪協会の近藤芳一会長によれば、戦争中に直江津捕虜収容所に収容されていた捕虜のうち2名はカウラ出身者で、1名は直江津で亡くなりましたが、もう1人はカウラに生還したとのこと。

「生還者から話を聞いたカウラの人たちが、『ぜひ直江津で亡くなった60名の豪州兵の慰霊をしよう』と、奈良におられたグリン神父さま(山田注:日豪の友好に大きく寄与された故トニー・グリン神父)と連絡を取り合いました。1986~87年頃のことです。その結果、1988年5月19日、当時は荒れ地であった元直江津捕虜収容所跡地での慰霊祭へと繋がったのです。私たちの出発点にはカウラがあったのです」(近藤会長からのメールより)

 60人の捕虜達の死の責任を問われ、戦後は8人の日本人職員(直江津の地元住民を含む)がBC級戦犯として処刑されたという顛末を鑑みれば、地元の人々にとり、事件は長いこと口に出すことも憚られるほどのタブーだったのではないでしょうか。

 多くの人々の大変な努力の結果、1995年(平成7年)、収容所跡地についに完成した平和記念公園には、オーストラリア兵死没者と捕虜収容所職員死没者のそれぞれの銘板碑のほか、平和友好像、捕虜収容所跡地の碑などが設置され、当時を知るよすがとなっています。

 こうした一連のプロセスを改めて振り返って見れば、この小さな公園は和解の象徴であり、同時にまた、戦争から平和、憎しみから共感へと続く長い道のりを真摯に歩いた人々の、まさに人間の証しと言えるのではないでしょうか。

※カウラ事件: 第二次大戦中の1944年(昭和19年)8月5日未明にオーストラリアのカウラで発生した、最大で1,104人の日本兵捕虜による集団自決的暴動。231人の日本兵捕虜と暴動鎮圧に当たった4人のオーストラリア兵が命を落としました。なお、死者数を234人(日本人)・5人(オーストラリア人)としている資料がありますが、これらの数字は事件からかなりの時間が経過した或る時点での「事件による負傷が原因で後日死亡した者を含めた死者数」です。しかし、その後は同種の追調査が行なわれた形跡がなく、事件による負傷が原因で更に死者が増えている可能性を否めないことから、現在の私(山田)は事件直後に豪州政府が発表した死者数(日本人231人・オーストラリア人4人)説を取っております。
 
上越日豪協会の皆さんと、平和記念公園に隣接する「展示館」にて(右端が近藤芳一会長) 
所在地:新潟県上越市川原町8の9(詳しい案内は公式パンフレットをご覧ください)
 さて、そうこうしているうちに今年もがやってまいりました。

 私の山小屋の庭には例年よりも少し遅い12月5日に初雪が降り、翌日までには見事な銀世界が拡がりましたよ。
 
庭のお地蔵さまのお姿―12月5日早朝(左)と6日早朝(右)



山小屋の庭(初雪が降り出して丸1日でこうなりました)



自家用雪上車(今シーズンの初乗り)



雪に鎖されていても、夜になると近所の温泉へGO!(笑)
 そして今年もブリタニカさんからの仕事依頼が届きました。
 
 思えばこの19年間というもの、私にとって一年の最後を締めくくる仕事は『ブリタニカ国際年鑑』の中のインドの政治経済ページの翻訳・執筆と決まっているのです。

 今年もこの依頼状が届きましたので、私の中で一気に年末カウントダウンが始まりました。
 大晦日まで残すところ3週間とちょっと。どうぞ皆さまも健やかにお過ごしくださいませ。

 ではでは♪
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


真剣なまなざしでジャーキーを見つめるブースケ氏

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2014年12月8日
山田 真美
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