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2013年4月21日号(第476号
今週のテーマ:
69年間沈黙を続けたカウラの元捕虜を訪ねて
★ 仏教エッセイ ★
言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中。第37回のテーマは「『智の器』としてのお寺の面白さ」です。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
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※入場無料・要予約。 ※お問い合わせ先: 飯山市公民館(電話0269-62-3342)
 
 今月に入ってから、「カウラ事件」がらみで色々な動きがありました。

 特に、事件発生(1944年)から今日に至る69年間も沈黙を守ってきた2人の元捕虜をインタビューできたことは、私にとってもカウラ事件研究にとっても大きな出来事だったと言えるでしょう。

 お2人は、ともに93歳。日本の全く別の場所にお住まいで、互いに互いの存在すら知りません。そのお2人から同じときに当時のお話を聞けるとは、正に僥倖でした。

 実は、このうちの1人に関してはほとんどノーアポに近い形で不意にお宅を訪ね、その場でいきなり用件を切り出すというほとんど奇襲のような形を取らせていただいたのです。玄関先で追い払われることも覚悟の上でしたが、結果的には応接間に通していただき、しかも2日連続で思いがけないほど多くのことを語っていただけました。

 元海軍軍人であるその人は、奇襲を仕掛けられて動じるような軟な男ではなかったということかも知れませんし、或いは老いが、この方の心を優しくしてくれたのかも知れません。同行してくださったMさんとIさんの意見では、女性である私だからこそ相手の心を開けたのだと言います。

 いずれにしてもインタビューは大成功。間に入って労を取ってくださったMさんとIさんには、大変お世話になりました。この場をお借りして深く御礼を申し上げます。なお、MさんとIさんのご本名を出してしまいますと、芋づる式に元捕虜の方の身元がわかってしまう危険がありますので詳細はここには書きません。あしからずお許しください。
   
今回は寝台列車で移動しました。(左)通路の両側は客室 (右)シングル個室
 さて今回の取材旅行中には、上に書いたインタビューの他にいくつか仕事があり、四国、山陽、近畿地方をまわりました。

 四国に到着した私が真っ先にしたことは、カウラ収容所のBコンパウンドの副団長だった豊島一(捕虜としての偽名は南忠男)氏の墓参りです。

 カウラ事件を追い続けてきた、この20年間、カウラ日本人墓地にある"Tadao Minami"の墓を何度訪ねたか知れません。しかし、香川県にある豊島家の墓にお参りするのは、今回が初めてでした。

 こういう言い方は適切ではないかも知れませんが、カウラ事件発生時に突撃ラッパを吹いて先陣を切り壮絶な死を遂げた南忠男(みなみ・ただお)という人物は、日本兵捕虜の象徴であり、カウラ事件の本尊のような存在です。

 その人のお墓参りをすることは、私にとって一種の巡礼に近い行為なのかも知れません。

 今回、豊島家の現当主である豊島昌三さんご夫妻と初めてお目にかかり、色々な話を聞かせていただきました。昌三さんは一さんの(長兄の長男)に当たり、一さんにとって最も近い親族です。穏やかで優しい、紳士的な方でした。

 その昌三さんが、まだ一度もカウラを訪問したことがないとおっしゃるので、

「来年のカウラ事件70周年記念式典に御一緒しませんか」

とお誘いしてみたのですが、返ってきた答えは意外にも、

「実は飛行機が苦手で……」

 優秀な零戦パイロットだった一さんの最も近い親族の方が、まさか飛行機嫌いとは。世の中、わからないものです。

 また、これまで私は一さんの好物がわからず、カウラの墓にお参りする際には日本の菓子などを適当にお供えしていましたが、「一さんの好物は何でしたか」と昌三さんにお聞きしたところ、

「おそらく、そのへんの山で採れたマツタケをよく食べていたのではないかと思います」

という衝撃的なお返事。

 マツタケのような高級品はなかなか気軽に持って行けるものじゃありませんし、第一、オーストラリアの検疫で引っ掛かって没収されてしまったら元も子もありません。「ああ、聞かなきゃよかった」というわけで、これには一同大笑いでした。

 なお、今回の墓参に関しましては香川近代史研究会の森広幸さんに一方ならぬお世話になりました。
 本当にありがとうございました。

(左)カウラ日本庭園の「南忠男」の墓(今年2月撮影) (右)郷里の香川県に立つ豊島家の墓。
右から順に長男、次男、三男(豊島一)の名前が刻まれています。豊島家は、3人兄弟全員が
太平洋戦争で亡くなっています。痛ましいですね。



墓石の側面。カウラ事件で亡くなったことが判明した今もなお「昭和十七年
二月十九日ポート・ダーウィン空襲メダブイン島ニテ自爆ス享年二十二才」
と刻まれています。ちなみにメダブイル島はメルヴィル(Melville)島のこと
 そういえば(本題とは全く関係のない話で恐縮です)マツタケで思い出しましたが、今回の旅行では行く先々で食事に恵まれました。庶民的な食堂が、ことごとく「当たり」。

 写真左上のサバ定食は、JR宇多津駅の職員さんが三度三度の食事をなさるという「構内食堂」でいただいた朝食。色々選べて380円。おふくろの味(但し厨房に入っていたのは男性)。美味しかったです。

 その次は安くて美味しいスペイン料理屋さん。家の近所にあったら毎日通うこと間違いなし。
 最後の1枚は胃腸が疲れたなと思って入ったお粥専門店
 そういえば香川で食べたうどんの写真を撮り忘れました。残念!

 カウラ事件のテーマで書いていたのに食べ物の話で脱線するのも奇妙なことですが、実際、元捕虜の皆さんの話を聞いていると、食べ物に関する事柄が異常なまでに多いのです。

 それだけ当時の日本兵は飢えていたということ。実際、ニューギニアあたりでは餓死者が続出していますからね。そのためか元捕虜さんのインタビューでは、食べ物の話が何時間も続くことが珍しくないのです。

 元捕虜さん達と会っていると、私は普段よりも格段にお腹が減ります。もしかしたら、彼らの食べ物に対する貪欲かつ命がけな記憶が私の食欲をそそるのではないでしょうか(いやマジで)。



今回の旅先でいただいた食事(の一例)
 取材旅行の最後のほうで、ついにフリータイムができましたので、いわゆる「物見遊山」を楽しむことにしました。

 ちなみにこの「物見遊山」という時代劇に登場するような言葉は、カウラの元捕虜でいらっしゃる村上輝夫さんの十八番(おはこ)です。口癖のようにおっしゃるので、ついに私にまで感染(うつ)ってしまいました(苦笑)。

 今回の私の「物見遊山」は、50年に一度の大天守工事中という物凄いタイミングの国宝・姫路城だったのですが、これがなかなか素晴らしかった。

 天守閣のてっぺん付近まで特設エレベーターで昇って行き、ガラス窓越しに改装工事の現場を見せてもらったのですが、なにしろ次の大改修工事は50年後。そのときまで自分が生きているとはさすがに思えませんから、今回が天守閣工事を見る最初で最後のチャンスだったわけです。

 お城に興味がない私も楽しめたのですから、これはなかなか秀逸なイベントだと思います。カウラとは何の関係もない話ですが(笑)、まあ、これも一期一会ってことで。

※姫路城大天守修理見学施設「天空の白鷺」公式ホームページはこちらからご覧になれます。
  
(左)50年に一度の天守閣の大工事でカバーを被った姫路城 (右)ゆるキャラ「しろまるひめ」



姫路城で夜桜見物。カウラ事件の取材がうまくいったのでホッとしています♪
 さらにこの翌日、大阪の梅田で「歯神社」という不思議な神社を見学。ここにお参りすると歯痛が治ると言われているのだとか……。

 こうして見ると、日本国内にもまだまだ知らない場所が山ほどありますねえ。ほんと、旅には出てみるものです。
 
大阪・梅田駅近くの「歯神社」にて
 西日本への旅から戻ってみると、北信濃はちょうど百花繚乱。ほうぼうで桜が満開でした。ああ、日本に生まれて良かった。

 今回はインタビュー時の写真をご紹介することができませんので、その代わりと言っては何ですが、この2~3日のあいだに撮った信州の風景写真を載せておきます。

これは実家(長野市内)の近所にある公園



こちらは隣り村の桜と千曲川



そしてこちらはうちの前庭。今年は野菜を増産しますよ♪



こちらはうちの裏庭の池。今年もミズバショウが綺麗です♪
 というわけでインタビューは首尾よく進み、あとは論文をまとめるだけとなりました。
 これまでのインタビューを生かせるかどうかは私次第です。絶対にやり遂げますよ。

 最後になりましたが、カウラ事件について一つ補足いたします。

 事件発生時(1944年8月5日)、収容所のBコンパウンドには1,104名の日本兵捕虜(下士官・兵・軍属クラス)が収容されていました。

 このうち、カウラ事件で亡くなった捕虜は234名(直後に亡くなった方231名+暫くして亡くなった方3名)。
 単純計算すると1,104-234=870で、870名は事件を生き残った計算になります。

 これらの870名は(その後オーストラリアで死亡したり戦犯容疑で帰国を許されなかったケースを除き)、基本的には昭和21年(1946年)4月に日本に帰国なさいました。

 その後、彼らのうちの有志が親睦団体の豪州カウラ会を結成するのですが、会への参加を呼びかける手紙を送ったところ大多数が参加を拒否したというのは有名な話です。

 以下は、豪州カウラ会第二代会長を務めた森木勝氏(故人)の言葉。

返事をくれない者がほとんどでした。返事を寄こした者の大半も、もう二度と連絡をしないで欲しいとだけ書いてきたのです。無理もありません。家族に対してさえ最後まで捕虜体験を告白できなかった者もいるわけですから」 (『生きて虜囚の辱めを受けず』〈ハリー・ゴードン著, 山田真美訳, 1995, 清流出版〉21ページより抜粋)

 つまり、体験者の大多数がこの件に関して口を閉ざしてしまったわけですが、事件から70年近くが経った今、この状況に変化が見られるようになりました。つまり、晩年を迎えた元捕虜がこれまでの沈黙を破り、当時のことを話し始めるケースが散見されるのです。

 しかも興味深いことに、その現象は日本だけでなくオーストラリアでも起こっている。例えばこれまで何一つ話したがらなかった90歳前後の元豪州兵が、突如当時のことを話しだすといったケースが、ここ数年の間に何例も報告されているのです。

 要するに、洋の東西を問わず、人は誰も重荷を背負ったままでは楽になれないということでしょう。

 かつての先輩や上官、戦友、あるいは妻がこの世を去り、誰にも気兼ねなく過去を話せる日がようやく訪れたということかも知れません。

 こうなってくると、彼らが語る最後の最後の一言までが珠玉の言葉ですね。
 それを聞くことを許された不思議な運命に、深く感謝せずにいられません。

 ではでは♪
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


4月21日に時ならぬ大雪が降り、
春から冬に逆戻りしてしまいました


(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2013年4月21日
山田 真美
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