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2012年2月13日号(第442号)
今週のテーマ:
カウラ事件68年目の想いを訪ねる旅
★ 仏教エッセイ ★
真言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中。第34回のテーマは「インドマジックで被災地に笑顔を[2]」です。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
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 ニュースでご承知のとおり、信州は連日の豪雪に見舞われております。

 それはもう、筆舌に尽くしがたいほどの、歴史に残るであろう大雪です。山小屋周辺の写真を撮り、生まれてこのかた雪を見たことのないインド人にメールしたところ、

「コレハ北極ノ写真デスカ?」

という真剣な答えが返ってきました。それぐらいの大雪です。
 

インド人が「北極」と見間違えた山小屋の風景
 そんななか、先週は5泊6日の旅程で兵庫・岡山・鳥取を旅してまいりました。カウラ事件を生き残った元捕虜の皆さんにお目にかかり、「事件から68年目の今、話しておきたいこと」をじっくりと聞かせていただいたのです。

 今回の旅では、兵庫県在住のKさん(93歳・元陸軍上等兵)、岡山県在住のTさん(90歳・元陸軍兵長)、鳥取県在住のYさん(93歳・元陸軍伍長)の3名をインタビューさせていただきました。

 インタビューの内容は博士論文の中で詳しく述べたいと思いますので、今日はその部分を端折らせていただきますことを何卒お許しください。

 また、今回インタビューしたお三方のお名前と写真に関しましては、(ご本人達は公開を快諾しておられるのですが)私自身の判断により、プライバシー保護の観点からお名前はイニシャルに、お顔はハートマークで覆わせていただきました。

 色々と考えてのことですので、ご理解をいただければ幸いに存じます。

  さて、西へ向かえば少しは暖かくなるに違いないという期待を抱きつつ、まず私が向かった先は、兵庫県のKさんのもとでした。

 Kさんは数年前に奥さまを亡くされ、現在はいわゆる老人ホームに入っていらっしゃいます。

 実は、Kさんとは昨夏もお会いしているのですが、残念ながらその後の6か月で急速に体が弱ってしまわれ、今回はお部屋から玄関までの短い距離を歩く足取りさえ覚束ない状態でした(昨夏は坂の上にあるバス停まで悠々と送ってくださる元気があったのですが……)。

元陸軍上等兵のKさんと
(Kさんが居住なさる老人ホームにて)
 同じホームに入居する女性が、

「Kさん、急に弱はらはったなあ」

と大声で言いながら横を通り過ぎて行ったのですが、その声すらお耳に届いていない様子。

 すっかり弱り切ってしまったかに見えるKさんでしたが、驚いたことに、話がカウラのことになると別人のように目を輝かせ、声を絞り出すようにして質問に答えてくださるのです。

 その姿には万感迫るものがあって、ひどく胸が痛みました。

 Kさんはきっと命懸けで歴史を残そうとしてくださったのだと思います。
 本当にありがとうございました。

 Kさんにいとまを告げたあとは、陸軍兵長だったTさんに逢うため、さらに電車とバスを乗り継いで岡山県内にある国立療養所へ。

 Tさんはニューギニアで捕虜となり、そこからブリスベンの尋問所を経由してカウラ戦争捕虜収容所へと移送されたのですが、カウラ到着と同時にハンセン氏病の罹患が発覚、隔離されたのです。

 そして、これから私が向かおうとしている「国立療養所」は、人里離れた小島のなかにあるハンセン病患者さんの療養施設なのです―。
 
1日に2〜3本しか便がない国立療養所行きのバス。
橋を渡って人里離れた小島へと向かいます
 Tさんがハンセン病と診断された1944年当時、この病気は特効薬のない恐ろしい伝染病でした。
 ちょうど松本清張の『砂の器』に描かれているような陰惨なイメージだったことでしょう。

 オーストラリアのドクターから病気の診断が下されると、Tさんはすぐさま他の日本人捕虜達から隔離され、カウラ収容所の片隅でのテント暮らしを強いられたと言います。

 Tさんが暮らしたテントへは、台湾人捕虜(軍属)が三度三度食事を運んでくれて、

内地人、かわいそうに

と親切にしてくれたとのこと。

 Tさんのテントからは鉄条網超しに野球に興じる日本人捕虜が見えたそうですが、その、手が届きそうで届かない夢のような光景を間近に見つめながら、たったひとりテント暮らしを強いられたTさんの孤独の深さは如何(いか)ばかりであったか。

 ……想像しただけで心が痛みます。
 
カウラ戦争捕虜収容所の日本人捕虜達は、毎日「野球」をして余暇を過ごしました。
Tさんはこの光景をフェンス超しに飽かず見つめていたと言います (写真/Tさん所蔵)
 このような状況下、他の日本人捕虜達とのコミュニケーションを絶たれたTさんが「目撃」したカウラ事件は、他の誰の視線とも異なる、非常に特異なものであったと言えるでしょう。

 1944年8月5日未明に事件が発生したとき、Tさんは事件現場の目と鼻の先に張られたテント内で就寝しておられました。真夜中に鳴り響いた突撃ラッパを聞くや、

「あれはイタリアではなく日本のラッパだ!」

と、すぐに察して飛び起きたそうです。

 しかし当然のことながら、Tさんは日本人の暴動計画を知らされていません。
 そのため、次々にフェンスを破って突撃して来る日本人の姿を目の前にしてなお、

(果たして自分のような者が参加して良いのか?)

という逡巡が先立ち、ついに暴動に加わることができなかったと言います。
   
元陸軍兵長のTさんと(現在Tさんが暮らす国立療養所にて)
 捕虜の問題とハンセン病の問題、2つの十字架を背負わされたTさんのその後は、日本の敗戦、帰国(帰国船の中では狭いロープ小屋の中に隔離されたそうです)、日本に到着してからはハンセン病患者への偏見と差別と続きます。

 ついには故郷の家族に迷惑をかけないために、戸籍からも除籍

 さらに姓名を改名なさって、ご本人いわく「どこの馬の骨とも知れないTという男になって」現在に至ったということでした。

 カウラから生きて帰国した約800名の元捕虜の中で、Tさんほど厳しいイバラの道を生きた方は、おそらく他にいらっしゃらないのではないでしょうか。

 実に考えさせられることだらけのTさんとの2日間でした。

国立療養所の前に広がっていた海と空
 2日間にわたってTさんのお話を聞かせていただいたあとは、さらに鳥取へ足を延ばし、長年おつきあいをいただいている元捕虜のYさんと再会。

 Yさんは、元捕虜の皆さんで組織する豪州カウラ会の現会長さんです。

 年々カウラ事件が風化してゆくなかで、どのように事件を次世代に語り継ぐことが可能なのか。

 その方策についてYさんと意見を交わし、また今年の豪州カウラ会の行事についても相談してまいりました。
  
鳥取も雪でした。右は電車の窓越しに撮ったJR伯備線沿線の風景
 カウラ事件の発生から今年で68年

 元捕虜の皆さんが軒並み90歳以上となり、櫛の歯が抜けるようにメンバーが減ってゆくなかで、今年はカウラ事件にとってメモリアルな年にすべく、色々なことを考えております。

 今は亡き高原希國さん(豪州カウラ会第3代会長)から再三言われた、

「あとのことは若いアンタに任せたで」

という言葉に報いるためにも、カウラ事件をきちんとした形で日本史の中に残すべく、(事件を博士論文にまとめることを含めて)微力ながらこれからも頑張りたいと思います。

 それが私の使命だと思いますので。
 
インタビューを終えて山小屋に戻ってみると、タイミングよくカウラ産のワインが届いていました♪
 なお、来月末に開催が予定されます第29回日本オセアニア学会年次総会において、カウラ事件に関する発表をさせていただくことになりました。

 タイトルは、

「カウラ事件」とは何だったのか
 ―日豪間の認識差と68年後の新証言をめぐって


を予定しております。

 これが私の学会デビューとなりますので、皆さん、どうぞ応援してくださいネ。
 ではでは♪
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


山小屋のまわりは小型犬が歩けない
ほどの雪深さ!

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2012年2月13日
山田 真美
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