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2012年8月26日号(第461号
今週のテーマ:
68年目のカウラ:ヘイ収容所跡地
―2012日豪親善カウラ・ヘイ捕虜収容所跡地訪問団の記録―
★ 仏教エッセイ ★
言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中。第37回のテーマは「『智の器』としてのお寺の面白さ」です。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
  【講演会のお知らせ】 来る9月21日(金)18時より都内・西麻布の黒川雅之建築設計事務所にて、有志の皆さまが「山田真美さんから「カウラ事件」について学ぶ会」と銘打った講演会を催してくださることになりました。
 ★入場無料・予約制(先着50名様限定)です。
 ★お申し込み・お問い合わせは まで。
 ★詳細は左の画像をクリックしてご覧ください。
 
※前号(68年目のカウラ:地元の人々との交流)はこちらからお読みいただけます。

 カウラでの濃厚な1日が終わり、この夜はベッドに入るなり死んだように眠りについた私でした。

 その頃、お隣りの部屋で村上さんが日本から持参した下駄をなくし、唄さんと吉光さんが夜中までかかって必死でそれを探していたことなど知る由もなく……。

(もっとも、最終的に下駄は村上さんのトランクの中から出て来たらしいのですが(汗))

 トラベルはトラブル。旅にトラブルはつきものですが、まあ、この程度で済んでよかったです。
 ちなみに今回の旅の最中は誰一人かすり傷一つ負わず、全ての日程を健やかにこなすことが出来ました。皆さんの行ないの良さと運の強さに、心から感謝!

 さて、翌朝はまだ暗いうちに起きてホテルをチェックアウトし、同じニューサウスウェールズ州内のヘイ(Hay)の街へと向かいました。
 ヘイは、第二次世界大戦中にオーストラリア国内に全部で28か所あった捕虜収容所のうちの3つがあった場所です。
 
まだ夜が明けないうちにカウラを出発、一路ヘイを目指しました



今日も運転は吉光さん、ナビは唄さんのゴールデンコンビです♪
 行けども行けども変わらぬ平坦な風景……。
 運転してくださった吉光さんも大変だったと思いますが、91歳の村上さんもよく辛抱してくれました!

 あまりに変化のない風景を見つめながら、村上さんがポツリと漏らした言葉は、

「せめてカンガルーでも出て来てくれたら目の保養になりますがなあ……」

 「目の保養」というおっしゃり方がおかしくて、みんなで思わず大笑いしてしまいました。

 村上さんは(ご自分では全く気づいていらっしゃらないのですが)ムードメーカーと言いますか、とても茶目っ気のあるお方なのです。旅の間じゅう、村上さんの何気ない一言が皆の笑いを誘って、とてもいい感じでした。

途中で小さな町を通りかかり、1軒だけ奇跡的(?)に開いていたカフェで朝食を摂りました。
なんとなく、みんな眠たそう? 左から村上輝夫さん、私、唄淳二さん、吉光徹雄さん



4人用テーブルしかなかったので、村上さんは娘と私に挟まれ「無理やり両手に花」状態(笑)。
ちなみにこのカフェの朝食は、見た目よりずっと美味しかったんですよ!
 さて、ここでヘイが戦争中に果たした収容所としての役割について簡単に説明しておきましょう。

 1944年8月5日に日本人捕虜達が起こした暴動(カウラ事件)のため、カウラ収容所Bコンパウンドにあった21棟の兵舎(ハット)のうち18棟はその夜のうちに焼け落ち、生き残った800数十人の捕虜が生活する場所は実質的に失われてしまいました。

 そこで日本人捕虜のうち下士官はマーチソン収容所に、兵はヘイ収容所に移動させられることになったのです。

(もっとも、仮にカウラ事件が起こらなかったとしても、Bコンパウンドの日本人捕虜のうち「兵」は8月7日にヘイ収容所へ移送されることが既に決まっていたのですが……。その意味に於いては、カウラ事件が起ころうが起こるまいが、村上さんら「兵隊さん」がヘイに送られることは決まっていたと言ってよいでしょう)

 カウラ事件発生後、一等兵だった村上さんはヘイに移送され、1946年3月3日にシドニー港を出航した引き揚げ船・大海丸に乗るまでの約1年半をヘイ収容所で過ごすことになります。

 村上さんはかねてから口癖のように、

もう一度ヘイに行ってみたい

とおっしゃっていました。そんな村上さんの願いが、いよいよ叶おうとしています。

 カウラから延々と走り続けること約5時間。ようやく目指すヘイ民間抑留者・戦争捕虜収容所案内センター(Hay Internment and P.O.W. Camps Interpretive Center)に到着しました!
 
「ヘイ民間抑留者・戦争捕虜収容所案内センター」にて、左から3人目がセンター長のデイヴィッドさん、
右端のお2人は職員のローラさんとキャロルさん親子
 ここのセンター長であるデイヴィッド・ハウストンさんとお目にかかるのは、実は今回が初めてでした。いや、それどころか、ヘイにこのような案内センターがあることを私が知ったのは、渡航のわずか2〜3か月前のことだったんですから。

 同センターの存在を知った私は、すぐに「これだ!」と思い、メールでいきなり「91歳の元捕虜の男性を連れてそちらを訪問したいのですが、案内して頂けますか」と飛び込み依頼をしたのでした。

 すると驚くなかれ、センター長のデイヴィッドさんから速攻で届いた返事には、

カウラ事件に関する専門知識があり、尚且つ英語を話せる日本人が当センターに来てくれる日を、私は何十年も前から待っていました!

と書いてあったではありませんか。

 というわけで、今回は皆が初対面であるにもかかわらず、会うなりいきなり全員で大ハグ大会(笑)。一気に盛り上がってしまいました(笑)。

デイヴィッドさん達とは初対面でしたが、会うなり全員が意気投合!



案内センターを裏側から見た風景。廃線になった鉄道の「かつての駅舎」を再利用した建物です



列車の車輛が今は博物館として再利用されています(内部は戦争中の収容所に関する資料で一杯)



駅舎にも当時の資料が保管されています。皆で寄ってたかって村上さんに当時のことをインタビュー!



いつになく真剣な表情で当時の写真に見入る村上さん



車ですぐのところにある「捕虜収容所跡地」へ行ってみました。しかし1本の門柱以外には
当時の面影はまるで残っていないよう(村上さん・デイヴィッドさん談)



デイヴィッドさんから収容所があった場所の詳しい説明を受ける村上さん



当時の建物が残っていないため「ようわからんです」と言いながらも、跡地にカメラを向ける村上さん



ご近所の女性(右から2人目の方)のお宅にお招きいただいてピクニック風ランチを楽しみました。
ヘイは小さな街。町民が皆「ファミリー」のような印象を受けました



ここはHay Gaol(当時の営倉)。いわゆる牢屋(ジェイル)です



カウラ事件の首謀者とされた金澤亮氏は、このうちのいずれかの独房に留置されました



当時の営倉内部の様子を再現した独房。壁の上のほうに小さな窓が付いています



戦時中の鉄条網。雨ざらしになって錆びていますが捨てずに取ってありました。「少し分けてください」
と言いかけたところ、その気を察したディヴィッドさんが10センチほど切って「お土産に」とくださいました



「もう一度ヘイに行ってみたい」という夢が叶い、万感迫った表情の村上さんを囲んで
 ちなみに今回の滞在中に泊まったホテルは全て、オーストラリア国内事情に詳しい唄さんが手配してくださったのです。お蔭で本当に快適なステイでした♪

 ヘイにはいわゆる「ホテル」も「モーテル」もないとのことで、大きな一軒家を2軒(男性用と女性用をそれぞれ1軒ずつ)借りることになりました♪
 
こちらが一晩だけ借りた家(左が女性用、右が男性用)



借りた家の中で夕食。なんと町内の小学校の先生(女性)がボランティアでお料理してくださいました。
何かの「買い出し」のため飛び出して行ったデイヴィッドさんが写真に写っていません、残念!



写真左端のキャロルさんは驚くほど優秀なヒストリアンです。今回も戦時中の資料収集に大いに
協力してくださいました。感謝♪
 ちなみに、今回借りた家のすぐ裏手には「マランビジー」という名の川が流れていました。
 この川の名前を聞いて「ピン!」と来た方は、かなりの「カウラ事件通」と言えるでしょう。

 実は、この川こそは、オーストラリアに収容された最古参日本人捕虜の1人である高原希國さん(収容所での偽名は高田一郎)が「永遠に忘れない想い出の場所」とおっしゃっていた場所なのです。

 高原さんの自伝『カウラ物語』によれば、高原さん達がヘイ収容所にたどり着いた1942年(昭和17年)4月の段階で、収容所には一般居留民、商社員、銀行員、木曜島の人々、鉱山技師、理容師、クリーニング商など1,000人ほどの日本人が収容されていたそうです。

 高原さんら戦争捕虜は、この頃は毎日8時間の労働を課せられていましたが、「憂鬱そのもの」だった毎日は、ひとりの女性の登場によって救われたと言います。

 ある日、高原さんらがマランビジー川のほとりで仕事をしていると、弟をお供に従えたひとりの美しい女性が現われて、

"Do not work so hard. Take your time, boys."
 (どうぞ働き過ぎないでね。ゆっくり働いてくださいね)

と微笑みながら、敵の捕虜である高原さん達にコーヒーと手製のケーキを振る舞ってくれたのだそうです。

 「彼女こそ天使であり平和のシンボル」と自伝に記していらっしゃるとおり、彼女の姿は高原さんにとって大きな救いだったのでしょうね。老境に入ってからもこのときの出来事を何度か口にしていらっしゃいましたから、きっと高原さんにとっては最高の想い出だったのでしょう。
 
高原さんが天使のような女性に逢ったマランビジー川
 こうして、村上さんが「どうしても生きているうちに行きたい」と切望なさっていた2つの捕虜収容所への訪問は、さまざまな新しい出会いのなかで、最初に考えていたよりもずっと大きな何かを形づくりながら実を結ぼうとしていました。

 「実を結んだ」ではない。「今から実を結ぼうとしている」という、未来につながる現在進行形の何かが、この旅の中で間違いなく生まれたように思います。

 「無事に」とか「大過なく」とか「つつがなく」といった日本語の常套句が全く似合わない旅。村上輝夫さんという91歳の元捕虜が、若い人よりも専門家よりも誰よりもパワフルに、何かを訴えかけてくれた旅でした。

ヘイから最寄りのグリフィス空港へとつづく道で。遠くに見える白いモノは綿(わた)の実です!
 ヘイで1泊したあとは、最寄りの(と言っても、かなり距離があるのですが(笑))グリフィス空港まで延々と自動車で移動。

 レンタカーはここで返し、小型飛行機に乗り継いでシドニーへと向かいました。
 
グリフィス空港にて村上さんと。背後に見えるのがシドニー行きの小型飛行機
 なお、この日記を付けている今日(8月26日)は、偶然にも村上さんのお誕生日です。
 信州リンゴをふんだんに使った洋菓子に下のような文面のバースデーカードを添えてお贈りしておきました。

 「村上さん、92歳のお誕生日おめでとうございます。どうかいつまでもお元気で
 2年後(2014年8月5日)の70周年も一緒にカウラへ行きましょうね!」
 [この続きはこちらからお読みいただけます]  
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


山小屋でトマトの大収穫に喜ぶパンダ

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2012年8月26日
山田 真美
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