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2009年2月4日号(第321号)
今週のテーマ:
寿老人と海老蔵と犬屋敷跡
★ 仏教エッセイ ★
真言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中です(毎月28日更新)。第10回のテーマは「夢のお告げ」。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
 ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、私はここ数年ほど七福神グッズのコレクションに凝っています。

 で、先日、世にも珍しい寿老人入りデカンタを手に入れました。

 フランス製のこのデカンタ、もとは高級ウィスキーのサーバーとして使う容器なのですが、よく見ると瓶が二重構造になっておりまして、内側の瓶の中ではナントあの寿老人がニッコリ微笑んでいらっしゃるという、非常に凝った趣向になっています。
  
二重構造のガラス製デカンタの内側で「わっはっは……」と笑う寿老人
 桃を片手にポッと頬を染めた寿老人、どことなく水戸黄門に似ていると思うのは私だけでしょうか(笑)?

 このデカンタは、ヨーロッパ美術に見られる中国風のデザイン、いわゆるシノワズリー(chinoiserie)と呼ばれる物で、外側の瓶にお酒を注ぐと内側の寿老人が膨張して見える楽しい仕掛けになっています。

 見ているだけでシアワセな気持ちになれる、箱入りならぬ瓶入りの神さま。

 実は、購入してからこのかた、まだ一度もお酒を入れていないのですが……今月は自分の誕生日もあることですから、このボトルで121歳長寿祈願(爆)をしようと思っています。

[注]七福神のうち、頭の長い神さまは果たして寿老人なのか福禄寿なのかという議論はありますが、そもそも両者は同一神です(正確に言うと、福禄寿は「福」と「禄」と「寿」3柱の神さまの合体神なので、寿老人は福禄寿の中に含まれるということ)。ここでは頭の長い神さま=寿老人とさせていただきますのでご了承くださいマセ♪

おまけ画像。最近ゲットしたもう1つの
レア七福神(大黒天+ホットペッパー)
 さて先週は、お茶の師匠(荒井宗羅先生)および社中の皆さんとご一緒に、新春花形歌舞伎(於/新橋演舞場)を観て参りました。

 この日の演目は「七つ面」(海老蔵)、「封印切」(獅童ほか)、「白浪五人男」(左團次、海老蔵、獅童ほか)の3本立て。所要時間は休憩を入れて約5時間という長丁場でした。

当日のチラシ
 どれも皆、見応えたっぷりのお芝居でしたが、出演者のなかでは海老蔵の色気がダントツでしたねえ。

 なにしろ舞台へ出てきた途端に、まるで後光がさしているかのように海老蔵の周囲だけピッカピカなんですから。

 旬のオトコとは、まさにああいう人のことを言うのでしょう。思わず「ありがたや、ありがたや」と手を合わせて拝みそうになりました。

 だって、あれだけのオーラを出せる人は1億2,700万人以上いる日本人のなかでも稀でしょうし、しかも、一生のうちで旬のオーラを出せる時期なんて限られていますから、今回は文字どおり「ありがたい=有り難い=めったにない」ものを見せていただいたという感じです。

 今回は荒井先生の伝手(つて)で一等席を取っていただいたお蔭で、役者さんの汗が飛んで来そうな至近距離での大興奮でございました。

 ちなみに、この日の幕間にいただいた歌舞伎弁当のメニューは、海老ならぬ御膳。
 しかも私が着ていたスーツはタイシルクと、大変おめでたいお取り合わせとなりました。
  
(左)鯛飯を前に微笑む荒井先生と私。しかし心の中では(シャンパンはまだ〜?)と思ってます(笑)
(右)ようやく乾杯と相成りました。30分の幕間の食事は慌ただしいけれど、これまた歌舞伎の醍醐味。
前列右は林さん(ボーダフォン元会長)、後列は大野さんとダンナさま
 歌舞伎の後は江戸見物です。

 先週から今週にかけては長野から母が遊びに来ておりましたので、母を連れてお江戸を散策したわけなのですが、若い頃の母は、東京へ遊びに来ると銀巴里でシャンソンを聴くのが趣味だったようなオシャレな人なので、ガイドブックに載っているような場所へ連れて行っても喜んでくれるとも思えません。

 しかも某俳句誌の同人を務めており、どこへ行っても俳句をひねる始末(笑)。
 そこで今回は、母が喜びそうな渋めの場所ばかりを選んで連れて行きました。

 まずは「生類憐みの令」で知られる五代将軍綱吉が作った御囲(おかこい)の跡地に始まって、日本で唯一「お天気の神さま」が祀られている気象神社、蟲封じで有名な穴八幡宮都庁の展望室(←ここだけいきなりお登りさん風ですが(苦笑))、それから穴場のタイ料理屋などなど。

 そのなかで母の一番のお気に入りは、どうやら娘のLiAが連れて行ってくれた都の西北、早稲田の学食だったようです。たった250円の醤油ラーメンを前にして、

「面白い! 楽しい!」

と大喜びしてくれるなんて、本当に娘孝行&孫孝行な母です(笑)。

 母は(私と違って)割と写真嫌いなので、残念ながら今回は公表できる親子三代写真がありませんが、代わりに私めのソロ写真を何枚か御披露しておきましょう(笑)。
  
綱吉が作った「御囲」(別名「犬屋敷」)の跡地。JR中野駅のすぐ近くです


  
「御囲」は30万坪の広さがあったと言いますから、東京ドームに換算すると21個分以上!
それまでの住民は強制退去になったと言うからヒドイ話です



こちらは都庁の南展望室から臨む夕暮れの東京


  
展望室で開催していた書き初め展にて。特別支援学校に通う小中学生の
皆さんの作品だそうです。私はこの2作品に惚れました。ダイナミック!
 さてここで、せっかくですから上記の「御囲」について詳しく書いておきましょう。

 中野区教育委員会が建てた碑によれば、「御囲」は野犬保護区として1695年に開設され、綱吉が亡くなる1709年までの15年間にわたって存続したようです。

 約30万坪の敷地には、5つの大きな「囲み」があって、それぞれの囲みのなかには各数百棟の犬小屋・餌場・日よけ場・仔犬養育場が置かれ、大勢の世話係やお役人、お医者さんが駐在していたとのこと。多いときには全部で8万数千頭のお犬さまが収容され、飼育料だけで1年間に9万8,000両かかったというのですが……これって現代の物価に換算したら一体どれぐらいなんでしょ?

 で、肝心のお金の出どころが、江戸の商家や天領(江戸幕府直轄の領地)の農民だったというのですから、ホント「冗談じゃない!」って感じですよね。

 綱吉がお犬さまを異常なまでに大事にするようになったのは、彼自身が子宝に恵まれなかったことが原因と言われています。

 綱吉には徳松という名のたったひとりの男児がいましたが、わずか5歳で夭折
 ちなみに、子どもの健康を祈って行なわれる「七五三」の習慣は、もとは徳松の健康を祈願して始まったものと言われています。

 一般に流布している説に従えば、徳松を失ったあと息子に恵まれず悩んでいた綱吉のもとに、綱吉の母が贔屓にしていた隆光なるお坊さんがやって来て、

「あなたは前世で多くの生き物を殺したから、その報いで子を授からないのです。まずは殺生を禁じなさい。あなたは戌年の生まれなので、犬は特に大事にしなくてはなりません」

と諭したといいます。これが発端となって、「生類憐みの令」と総称されるさまざまな動物愛護の“お触れ”が誕生したというわけです。

 綱吉自身は約100匹の狆(チン)を飼っていたそうですから、犬のなかでも狆は最高級犬種だったのでしょうねえ。うちのパンダも世が世なら偉〜いお犬さまだったのかも。

平成のお犬さま(モデル/パンダ・狆・5歳・♀)
 また、この頃には「御犬毛付帳制度(おいぬ・けつけちょう・せいど)」と呼ばれる飼い犬の登録制度が導入されています。

 現代日本でも猫を飼うのは自由なのに犬を飼うには登録の義務がありますが、その点は江戸時代も今も変わらないわけですね。

 綱吉には徳松のほかに鶴姫という女児もいましたが、彼女も27歳で綱吉の存命中に亡くなっています。

 世間では犬狂いの稀代の変人のように言われることの多い綱吉ですが、ふたりの子どもに先立たれた親としての深い悲しみや、お世継ぎを期待されるプレッシャーなどを想うと、ちょっと切ない気持ちになりますね。

 そんなことを想いながら親子三代でそぞろ歩いた、見るもの聞くものがちょっと新鮮な1週間でした。
 ではでは♪
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


「僕だって海老蔵ぐらいイイ男だ」と
本人は思っているに違いない!?
(信州の山小屋にて、先週撮影)

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2009年2月4日
山田 真美
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