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2009年7月4日号(第341号)
今週のテーマ:
スターの死
★ 仏教エッセイ ★
真言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中です。第15回のテーマは「アンチエイジング」です(毎月28日更新予定)。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
 1970年代に大ヒットした女性ヴォーカル3人グループ、スリー・ディグリーズのオリジナルメンバーのひとり、フェイエット・ピンクニーさんが、6月27日、急性呼吸不全のため故郷のフィラデルフィアで亡くなりました。享年61歳でした。

フェイエットの死を伝えるフィラデルフィアの新聞(Philly.com)より抜粋
 スリー・ディグリーズは、その名のとおり女性3人で構成される黒人のヴォーカルグループでした。

 いわゆる泥臭いソウルミュージックとは似ても似つかない、ポップス風に洗練されたソウルを歌った彼女たちは、本国アメリカよりも、むしろ何故か日本で爆発的にヒット

 数あるヒット曲のなかで最も知られている曲は『荒野のならず者(Dirty Ol' Man)』あたりでしょうか。

※Youtubeにありましたので下にリンクを張っておきます。ぜひ聴いてみてください。
 左端で歌っているのがフェイエットです。
 『荒野のならず者』 http://www.youtube.com/watch?v=iLEMJdSH4PE


 ちなみに、Dirty Ol' Manの語感をズバリ邦訳すれば「このスケベおやじ!」といったところ(笑)。

 この曲は歌詞がワイセツだという理由からイギリスで放送禁止になるのですが、それに対するファンの抗議があまりにも大きかったため、テレビ局は逆にスリー・ディグリーズの特番を作るハメに陥ったというオチまで付いています。

 ……つまり彼女たちは唯のアイドルグループではなく、一種の社会現象でもあったわけです。

 彼女たちが活躍したのは1970年代の中頃ですから、いま思えば、日本経済がバブルに突入するまでには10年ほどの間がありました。

 しかし「バブルへの助走」は、1970年の大阪万博を皮切りに、既に日本中の至るところで着々と進んでおり、この時期の日本は、言ってみればイケイケドンドン前夜祭と呼ぶにふさわしい活況を呈していたように思います。

 そんな時期に、スリー・ディグリーズは突然、まさしく彗星のごとく現れたのです。

 圧倒的な歌唱力と、きらめくほど(!!!)のセクシー・ボディー。さらには、「好きな日本男性のタイプは?」と質問されて、「スモー・レスラー(お相撲さん)」と答えるなどの、意外にオチャメなキャラ

 それらすべての要素が、当時の日本人の心の琴線に触れまくり、気がつけばディグリーズはスターダムのトップにのし上がっていました。

 日本公演のポスターには、最初からSOLD OUT(売り切れ)の文字を印刷していたそうですから、チケットの入手なんて、一般人にはほぼ不可能でした。

 2回目(?)の来日公演のために作られたパンフレットに、かの細野晴臣氏が、

「スリー・ディグリーズよ、いっそ日本に住んじゃいなさい

というコメントを寄せていることからも、当時のスリー・ディグリーズの日本における人気が半端じゃなかったことがおわかり頂けるでしょう。

スリー・ディグリーズのLPレコードジャケットより
(中央、黄色い衣装がフェイエット)
 私の場合は、生まれて初めて本気で好きになった音楽のユニットが、何を隠そうスリー・ディグリーズでした。
 しかし、私の実家はなにしろ漫画が禁止されていたほど厳しい家でしたから、歌謡曲のコンサートに行くなんてもってのほか

 それでも、スリー・ディグリーズのコンサートだけはどうしても行きたかった
 おそらく私は、

「たとえ勘当されても行きますからね」

というような強力オーラをムンムン発散させていたかも知れません(笑)。

 そのためさすがの母もビビったのでしょう、一言も文句を言わずに送り出してくれたのはラッキーなことでした(苦笑)。

 こうして私は生まれて初めて(!)クラシック以外の音楽のコンサートを聴きに行ったのです。
 確か、高校2年生のときだったと思います。

 一緒に行ったのは、部活(英語劇)が一緒だったクミコちゃんというポニーテールの女の子。
 2人分のチケットを買うために、気が遠くなるほど長い行列に並んだことを、まるで昨日のことのように思いだします。

 考えてみれば、あれはまさしく青春の想い出ですねえ〜。
 一緒に行った相手が彼氏じゃなかったのが、ちょっとアレですけど(笑)。

レコードジャケットより
(右端がフェイエット)
 天性の耳の良さでしょうか、それとも努力の賜物なのでしょうか、スリー・ディグリーズは外国語(日本語、フランス語、スペイン語)の曲も発売し、次々にヒットさせていました。

 同じ頃に人気絶頂だったキャンディーズとテレビ番組で共演し、6人がズラッと並んで『年下の男の子』を歌ったこともありましたが、あれはなかなか圧巻でしたね。

 しかし、同時にその番組は、(キャンディーズにとっては酷な話ですが)日本のアイドル歌手とアメリカのアイドル歌手のあいだに横たわる圧倒的な歌唱力の差というものを、テレビを通じてハッキリ示してしまったと言えるかも知れません。

 田舎の高校生だった私は、このときテレビの前で衝撃を覚えながら、こう思ったものです。

「日本のなかだけで納得していたらトンデモなく世界に遅れてしまう。早く外に出なくては!」と……。

 亡くなったフェイエットは、3人のなかでいちばん地味な存在だったかも知れません。

 なにしろ14歳だった1963年にスリー・ディグリーズの初期メンバーに選ばれ、1965年のレコードデビューから1976年に28歳でグループから脱退するまでの14年間を通じて、ただの一度もリードを歌ったことがないのですから。

 つまりフェイエットは3人の真ん中に立ったことがなく、ポジション的にはいつでも端っこ

 でも実際のところ、彼女の歌唱力は素晴らしかった。3人の真ん中に立たせてもらえなかったのは、決して歌がヘタだったためではなく、ちょっと華やかさに欠けるキャラが災いしたのかも知れません。

 ディグリーズを脱退した後のフェイエットは、大学に入って修士号を取り、病院のカウンセラーとして働いていたそうですから、もともとマジメな頑張り屋さんだったのかも知れませんね。

 それにしても、フェイエット、あれから30年以上の歳月が流れてしまいましたが、私はあの頃も、そして今も、貴女のことが大好きですよ。

 素晴らしい曲をたくさん歌ってくれて、本当にありがとう。
 貴女の歌声は、まさに私の青春のBGMそのものです!

 故郷フィラデルフィアの大地で、どうか安らかに眠ってください。

※ちなみに現在もスリー・ディグリーズという名のグループは活動を続けているようですが、オリジナルメンバーはすっかり入れ替わり、当時とは似ても似つかぬグループになっています。ですから、ここに書いたことは、あくまでも私がリアルタイムで知っている全盛期のスリー・ディグリーズに関する逸話であることを、何卒ご了承ください。
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


嵐の前の静けさ

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2009年7月4日
山田 真美
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