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2010年1月16日号(第371号)
今週のテーマ:
高原希國の死と一つの時代の終わり
★ 仏教エッセイ ★
真言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中です(毎月28日頃更新)。第21回のテーマは「4億年の引きこもり」です。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
 今日は残念なお知らせがあります。

 海軍出身の元軍人で、カウラ事件の最後の生き残りのひとりだった高原希國(たかはら・まれくに)さんが、昨年11月、かねてから入院療養中の神戸市内の病院で天寿を全うされました。89歳でした。

 ここ数年、高原さんのお具合が優れないことは存じ上げていました。大好きなお酒にもドクターストップがかかっていましたし、去年のお正月に電話で話したときも、電話口で立っていることができず、かなり疲労困憊しておられるご様子でしたので。

 実は、電話などを取りつぐことのできるご家族が高原さんにはいらっしゃいません。そのためここ数ヶ月は、何度かご連絡を差し上げながら音信不通の状態が続いていたのです。

 毎年、元日にきちんと届いていた達筆の年賀状も今年は届かず、

(これはいよいよダメかも知れない。松の内が終わる15日まで待って年賀状が届かないようなら、高原さんの消息を知っていそうな誰かに安否を尋ねてみよう)

と思っていた矢先でした。

 松の内最終日の1月15日、私はたまたま縁あって東京西ロータリークラブでカウラ事件をテーマに講演をしていました(それ自体、奇縁と言えば奇縁ですね)。

 講演を終え、家に帰って高原さんからの年賀状が届いていないことを確かめ、すぐに豪州カウラ会の山田雅美さんに電話をかけてみたところ、返ってきたのは、

「高原さんは11月に亡くなられましたよ。私も、カウラ会のほかのメンバーたちも、高原さんの死に目に逢えませんでした」

という、かえすがえすも残念な答えだったのです。

 高原希國の死。それは間違いなく、太平洋戦争史における一つの時代の終わりを意味します。

 彼は、カウラ事件を語る上で欠かす事の出来ない人物ですが、ひとりの人間として見たとき、彼の一生はまさに波乱万丈、九死に一生の連続。一瞬も休むことなく人生を駆け抜けて行った人であったと思います。

 以下に、私が知る限りの高原さんのプロフィールをまとめて記しておきます。
 奇妙な運命に翻弄されたひとりの海軍軍人を想う縁(よすが)としていただければ幸いです。
高原希(たかはら・まれくに)
1920年(大正9年)4月17日生〜2009年(平成21年)11月没。


 兵庫県生まれ。元海軍軍人。

 予科練(海軍飛行予科練習生)を経て海軍軍人となり、1940年(昭和15年)に華々しく挙行された紀元二六〇〇年観艦式の先導役に選抜されるなど、実に卓抜した腕を持つ飛行機乗りであった。

 一等飛行兵曹だった1942年(昭和17年)、九七式大艇でオーストラリア北部ダーウィン上空を偵察中にアメリカの戦闘機P40と相撃ちになってそのまま海に墜落(この衝撃で乗員8人のうち2人が死亡)。ゴムボートで漂流したのち(この間にさらに1人死亡)、命からがら上陸した島では病気と飢餓にあえぎ、死に物狂いでジャングルを彷徨ううち、不覚にも現地人に捕らえられてオーストラリアに送られる。

 カウラ戦争捕虜収容所で最古参の日本人捕虜のひとりとなったものの、捕虜としての高原は決して実名を名乗らず「高田一郎」の偽名で通した。また身分も海軍軍人ではなく漁船員で押し通したため、捕虜収容所では戦争捕虜ではなく軍属捕虜として扱われた。

 その後、235人の死者を出した近代史上最大の戦争捕虜脱走事件(いわゆるカウラ事件、1944年8月5日発生)で、高原は日本人将校らが収容される兵舎の敷地まであと10メートルの地点まで達するも、豪州兵による激しい銃撃の前に進退窮まる。敵の弾丸が臀部をかすめたが、弾丸の角度が浅かったため高原の体の上でバウンドして飛び、すぐ隣で伏していた土岐という名の兵隊の心臓をそのまま直撃し、土岐は即死。高原自身は奇跡的に無傷でカウラ事件を生き残った。

 偽名を使ったことが原因となって、高原は「死亡」と見なされた。実家へは戦死通知が送られ、既に葬儀が営まれていた。終戦後しばらくして故郷へ戻った高原の姿を見た父親の第一声は、「幽霊だ!」であったという。

 戦後の高原は豪州カウラ会の結成に寄与し、同会の第三代会長も務めるなどカウラ事件のスポークスマン的な存在となり、若い頃にカウラで覚えた英語を駆使して活躍した。長く証券マンとしても活躍し、退職後は兵庫県内にある黒川古文化研究所に籍を置いた。

 1995年の阪神淡路大震災では、最も被害が大きかった激震地付近の自宅にいたにもかかわらず、あと2〜3センチで家具の下敷きとなるところを無傷で助かった。

 2009年11月に89歳で亡くなるまで頻繁に日本とオーストラリアを往復し、カウラ事件を通じて世界平和を呼びかけ、生涯、伝道師のような役割を果たした。

 著書に『カウラ物語』(私家本、絶版)がある。

 カウラ事件の研究書である『生きて虜囚の辱めを受けず』(ハリー・ゴードン著、山田真美訳)や『ロスト・オフィサー』(山田真美著)の中で、高原は重要人物のひとりとして描かれている。

文責:山田真美
参考資料:『ロスト・オフィサー』および高原氏と山田真美の往復書簡など
 亡くなった今、こうしてプロフィールを振り返ってみると、高原希國が既に歴史上の人物となったことを痛感します。そして彼は、おそらく喜んでその重い役割を引き受けてくれることと思うのです。

 最後に、昨年のお正月に高原さんからいただいた年賀状をご紹介しておきます。

 「山田真美様 謹賀新春 春が来るのが楽しみです。
 まだまだ生きて頑張ります。本年もどうぞよろしく。 高原希國」

 きっと高原さんには、まだまだ生きてやりたいことがおありだったのでしょう。そしてそれは、カウラ事件を後世に語り継いでゆくという仕事だったに違いありません。遺された私たちはその仕事を引き継いでゆかなければいけないと、強く思います。

 大正時代の日本の面影と、海軍らしく「わたくし」の一人称を使うジェントルマンシップは、高原さん達の時代で終わりかも知れません。

 高原さんのご冥福を心からお祈り申し上げると共に、これまでにいただいたご厚情に対して、この場をお借りして改めて深く感謝申し上げます。合掌
  
(左写真)2004年8月に豪州カウラで催された「カウラ脱走60周年式典」に臨んだ元捕虜の皆さん。
左から海軍出身の高原さん、陸軍出身の山田さん、陸軍出身の村上さん、取材のため同行した私
(右写真)大脱走が起こった当日、日本人捕虜収容所の警備に当たっていた元オーストラリア兵の
マッケンジーさんと高原さん(60周年式典にて)。マッケンジーさんも既に故人となられています



  
在りし日の高原さんと私。2004年10月、オーストラリアのテレビ番組撮影のために
訪れた大阪城にて(右写真でカメラを構えているのはKojo Productionのジョンさん)
※なお、2004年8月に高原さん達とご一緒にカウラを訪問した際の日記はこちらからお読みいただけます。

※高原さんが航空術を学ばれた予科練の貴重な映像がYoutubeにありましたので、ご興味のある方はこちらからご覧ください。この映像のどこかに若き日の高原さんが映っているかも知れない……と思いながら見ると、なかなか感慨深いものがあることでしょう。
▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


平和な時代に生まれて良かったね、ブースケ!

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2010年1月16日
山田 真美
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