旅に出ていない限り毎週土曜日に更新します。
直前号[68年目のカウラ:ご遺族からの預かり物]は
こちらから、それ以前のバックナンバーは
こちらから御覧になれます。

2012年6月16日号(第457号)
今週のテーマ:
68年目のカウラ:シドニーへ
―2012日豪親善カウラ・ヘイ捕虜収容所跡地訪問団の記録―
★ 仏教エッセイ ★
真言宗のお寺・金剛院さんのウェブ上で『仏教一年生』と題したエッセイを連載中。第37回のテーマは「『智の器』としてのお寺の面白さ」です。左のロゴをクリックしてページに飛んでください。
 このたび、元捕虜の村上輝夫さん(91歳)をエスコートしてカウラ戦争捕虜収容所跡地(オーストラリアNSW州)などを公式訪問して参りました。

 「2012日豪親善カウラ・ヘイ捕虜収容所跡地訪問団」と銘打った今回のツアーは、お蔭さまでオーストラリア国内で大きな反響を呼ぶことができました。

 カウラ事件はしばしば「日豪関係を考える上で最も重要な出来事のひとつ」とされますが、日本に於いては歴史教科書にも載らず、今まさに忘却の彼方へ追いやられようとしています。

 事件の風化を防ぎ、その意味を真正面から問い直すことの必要性を20年間にわたって問題提起してきました。今回のカウラ訪問によってオーストラリアにおける歴史認識に新たな一石を投じることが出来、心から嬉しく思います。

 なお今回の訪問は、私が把握しているだけでも以下のメディアで報道されました。
テレビ報道  
チャンネル10ニュース  5月30日オンエア ※「cowra」「POW」「murakami」などのキーワードで検索してください(但しリンクを探すのが難しいかも知れません)。
プライム7ニュース  6月1日オンエア ※日本人墓地で村上さんと私がインタビューに答えています。オススメです。
ABCニュース  6月1日オンエア ※動画はアップされておらず文字だけです。
新聞報道  
ザ・カウラ・コミュニテイーニュース  5月27日掲載 ※60周年記念式典(2004年)の写真を掲載。地方紙らしく、今回の訪問の詳しい日程が詳細に紹介されています。
ザ・カウラ・ガーディアン  5月29日掲載 ※60周年記念式典(2004年)の写真が紹介されています。
ザ・デイリー・テレグラフ  5月31日掲載 ※戦争中の捕虜収容所の写真が見られます。
ザ・セントラル・ウェスタン・デイリー  6月2日掲載 ※写真なし。記事だけです。
ザ・カウラ・コミュニティーニュース  6月5日掲載 ※村上さんと私が日本人墓地でお参りする写真が大きく紹介されています。
ラジオ報道  
ABCラジオ  6月1日オンエア ※写真右下の「Audio」をクリックすると村上さんの肉声をお聞きいただけます。オススメです。涙腺のゆるい方はハンカチのご用意を。
 
 「週刊マミ自身」では、今回のオーストラリア訪問記を「シドニー(前半)」「首都キャンベラ」「カウラ捕虜収容所跡地」「ヘイ捕虜収容所跡地」「シドニー(後半)」の5話に分けてご報告いたします。

 なお、今回の「2012日豪親善カウラ・ヘイ捕虜収容所跡地訪問団」メンバーは以下の5名でした。 
 村上輝夫さん  元陸軍兵士、元捕虜。
※「たいしたことありませんわ」が口癖の91歳。飄々と我が道を行くタイプ。
 唄淳二さん  訪問団副団長、ワイン輸入代理店「ヴァイ・アンド・カンパニー」代表取締役。
※お苗字は「ばい」とお読みします。珍しいお名前ですが純粋な日本人です。
 吉光徹雄さん  工学博士、宇宙科学研究所准教授。今回は主に運転担当。
※出発直前にギックリ腰になり、危うく訪問団から脱落しかかる。
 リアさん  アート・ディレクター、シドニー在住。今回は主に撮影担当。
※ちなみに私の娘です。
 山田真美  訪問団団長。
※出発2日前に愛犬とかけっこ中、右足のふくらはぎを肉離れ。痛みをこらえ出発。
 
 [5月29日 - 成田からシドニーへ]

 成田発19:50のJAL771便(夜行便)にて、一路シドニーへと向かいました。搭乗者は村上さん、吉光さん、私の3名です。一足先にオーストラリア入りしている唄さんと、現在シドニー在住の娘とは現地合流の予定。

 余談ですが、「飛行機に搭乗」と書こうとしたところ、私のパソコンは当たり前のように「飛行機に東条」と変換してくれました。ちなみにその次の漢字変換候補は「飛行機に東條」でした(汗)。第二次大戦の研究をしている研究者のパソコンなんて、大なり小なりこんなものでしょう(おそらく)。

 さて村上さんは常日頃から、

「わしは乗り物では絶対に眠れませんわ

と仰っているのですが、その言葉どおり今回も機内では一睡もせず、ひっきりなしに歩き回っては竹踏みや屈伸運動に熱中しておられました(なお機内では持参の草履に履き替えていらっしゃいました)。

 またニューギニア上空を通過した際には、

ラエの町の灯が見える!

と言いながら窓越しに食い入るように眼下を眺めていらっしゃったそうです(吉光さん談)。
 ちなみに私は爆睡しておりましたので、そのあたりは何の記憶もありません。m(_ _)m

 オーストラリアの公式記録によれば、村上さんはニューブリテン島の最西端ツルブから最東端ラバウルへの撤退中に、北岸中央部のタラシー(Talasea)付近でマラリアに倒れ人事不省に陥っていたところを米軍に捕えられPOW(戦争捕虜)になった方です。それを思えば、ラエの上空を通るだけでも特別な思いがあったことでしょう。
  
(左)成田空港にて。飛行機に搭乗する直前の村上さんと私
(右)エコノミー症候群防止の運動に励む村上さん。足元にある竹踏み用の竹は、
キャビン・アテンダントさん用に機内に常備されている品をお借りしたものです


 
JALのキャビン・アテンダントの女性達からお手製の花を贈られ、ご機嫌の村上さん
[5月30日 - シドニー]

 6時35分到着予定のところ、飛行機はやや遅れて到着
 そのうえ入国審査窓口は予想以上に混雑しており、遅々として進まず。

 今日は朝から予定がびっしり詰まっているため、団長である私はのっけから時間を気にしてやきもきする羽目に陥りました。

 予定では、ここからタクシーで娘の家に向かうことになっています。一足先にシドニー入りしている唄さんも、これから5日間みんなで乗ることになるレンタカーで娘宅に合流。そこから全員でロン・ファーガソンさんのご自宅へ向かう……というのが段取りです。

 ロン・ファーガソンさんとはオーストラリア陸軍の元衛兵で、カウラ事件が発生した当夜、たまたま現場の警備についていらっしゃったという方です。ほかの元衛兵は高齢や疾病で既に亡くなられ、カウラ脱走協会の説明によればファーガソンさんが「最後のお一人」ということでした。

 その後、どうにか唄さん・娘とも合流でき、約1時間遅れでファーガソンさんのご自宅へ。

 今朝は新聞社(1社だけ)の取材が「もしかしたら入るかも」という話だったはずが、いざ現場に到着してみればABC(オーストラリア国営放送)、チャンネル10(人気の民放テレビ局)、ザ・デイリー・テレグラフ(大手の新聞)などマスコミ数社がカメラの放列を作って我々を(正しくは村上さんを)待ち構えていたではありませんか。

元衛兵のロン・ファーガソンさんが村上さんをお出迎え


  
村上さんの到着を待ち構えていたオーストラリアのマスコミ各社


 
昔話のあとで固い握手をかわしながら破顔一笑するふたりの元軍人
 「昨日の敵は今日の友」と言葉で言うのは簡単なことですが、あの血なまぐさいカウラ事件から68年を経てようやく実現した村上さんとファーガソンさんの再会には――どちらも相手の顔を覚えていなかったとはいえ――ずっしりとした重みがありました。

 その重みは、私達「戦争を知らない世代」がしっかり受け止め、さらに下の世代へと正しく語り継いでゆかねばならない課題のように思えます。

 その意味では、今回、娘のリアをカメラマンとして同行したことは正解だったと思います。彼女はおそらく、カウラの元捕虜から直接詳しい話を聞くことのできた最も若い人のひとりになるでしょう。娘にそういう機会を与えられたことを非常に嬉しく思います。

 ファーガソンさんのお宅をあとにした私達は、休む間もなくシドニー日本総領事公邸に向かいました。

 実は、今回の旅のスケジュールを立てるに当たって私は最初の段階から外務省に足を運び、状況を詳しく説明しておりました。
 つまり今回の訪問を日豪関係にとって有意義なものとするために、外務省の関係部署と何度も綿密な打ち合わせを繰り返していたというわけです。

 そのような経緯がありましたので、今回、キャンベラとシドニーではそれぞれ日本大使閣下と日本総領事閣下からランチにご招待いただき、下へも置かぬ歓迎を受けました。

シドニー日本総領事公邸にて(左下より反時計回りに):小原雅博シドニー日本総領事閣下、
村上さん、唄さん、リア、私、吉光さん



オーストラリアでの最初の食事はオリジナリティあふれる和食(ワインも美味しくいただきました)♪
 さて、ここで小原総領事閣下から耳寄りな情報が入りました。

 先の戦争中、5隻の大日本帝国海軍特殊潜航艇(巡潜乙型潜水艦)がシドニー港に潜入し、オーストラリア艦船に対し攻撃を加えたことはご存知でしょうか。

 その日(1942年=昭和17年5月31日)から数えて、なんと明日が70周年の記念日だというではありませんか。

 あのとき、つまり特殊潜航艇によるシドニー湾攻撃で日本軍は、停泊中のオーストラリア艦船「クッタバル」を撃沈(乗組員21名が死亡)したものの、みずからも5隻のうちの3隻を失っています。

 失われた3隻のうち、1隻は米軍の巡洋艦シカゴからの爆撃を受けて撃沈したもの。
 残る2隻のうち、1隻は海中のに引っ掛かり、1隻は爆雷攻撃を受けてそれぞれ進退窮まったあと、敵に捕らえられることを嫌って2隻とも自爆の道を選びました。

 この、自爆した2隻の特殊潜航艇の乗組員4名に対して、当時のオーストラリア海軍は海軍葬を執り行なっています。敵国の軍人を弔うことに反対する者も少なくなかったと言われますが、葬儀を挙行したグールド少将はこのとき次のような言葉を(ラジオを通じて)述べたとのこと。

「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」 (『世界から見た大東亜戦争』[名越二荒之助著, 展転社刊, 1991年]P.180 より)

 グールド少将は日本軍人の勇気と愛国心に「敵ながらあっぱれ!」と敬意を示したわけですが、とはいえ戦争のさなか、海軍葬を挙行して敵に礼を尽くすことは容易ではなかったと思われます。

 逆のパターンを考えてみましょう。これが仮に昭和17年の東京湾で連合国の潜水艦によって起こされた事件だったらどうなっていたか。あの時点で、我が国の武士道は果たして敵に対しても礼節を尽くすことができたでしょうか。

 おそらくそれは難しかっただろうと私は思うのですが、皆さんはどう思われますか。

 2隻の特殊潜航艇の乗組員らが投降(降参し敵の捕虜になること)せずに自爆した経緯の裏には、『戦陣訓』の「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えが影響していたことでしょう。

 そして、捕虜となることを恥とする思想はやがて1944年8月5日のカウラ暴動へとつながってゆく……。

 こうしてみると日本の特殊潜水艇によるシドニー湾攻撃は、日豪それぞれのメンタリティーを考証する上で実に考えさせられることの多い事件ではありませんか。
  
首都キャンベラへの道(この日の運転担当は唄さんにお願いしました)
 総領事館をあとにした私達は、一路、首都キャンベラを目指しました。

 南半球オーストラリアは今が冬のはじまり。日照時間が短く、キャンベラのホテルに到着する頃には既にとっぷりと日が暮れていました。

 今夜はみんなが大好きなタイ料理です(笑)。
 [※続きはこちらからお読みいただけます。]
 ▼・ェ・▼今週のブースケ&パンダ∪・ω・∪


ママの帰りをずっと待ち侘びていたパンダ

(※前号までの写真はこちらからご覧ください)
事事如意
2012年6月16日
山田 真美
※週刊マミ自身の一部または全部を許可なく転載・引用なさることはお断りいたします♪
©Mami Yamada 2000-2012 All Rights Reserved.